わたしらしさに彩りを。

日々のよしなしごとを綴ります。食べることとaikoと言葉をこよなく愛する女子大生。

思い出すのは。

 

昼間の暑さが嘘みたいに涼しい風が香る中を、すり抜けるようにして歩いた。

夜ごと秋が深まってゆく。

 

思い出す、というよりもっと自発的なもの。
考えるより先によみがえるから、その都度はっとさせられてしまう。この季節は特に。
断片的な記憶や景色、空気や温度や手ざわりなんか。うまく表現出来ないけど。


それは決まって高校時代のことだ。
高校3年間の秋と冬。

 

久しぶりに袖を通した合服の感触とか
河川敷の優しい夕暮れとか
真っ暗でひんやりした学校の廊下とか
ちいさな町のささやかな夜景とか、

つめたい楽器にくちびるを押し当てる瞬間
メトロノームの音が響く教室
何度もくりかえし練習したフレーズ
人いきれと暖房でむっとした舞台裏、

 

いちばんは、時折香る風の匂い。

 

 


住んでいる場所も、歩いている道も、髪型や服装も、考え方だってあの頃とは違う。

挙げ列ねてみれば変わったことの方が断然多いのに、また同じ季節を生きているような錯覚に陥る瞬間があるのだ。


目に見えるものがどんどん変わっていくからこそ、目に見えないものの変わらなさが際立つのかもしれない。

 


袖を風がすぎるは秋中、そんなことを考えた。
なんて一日。

 

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本を読む ということと、読書日記

 

本屋さんよりも、図書館が好きかもしれない。好きというか、より近しいもののように感じるのだ。


図書館は、物心ついた頃からごく自然に日常に組み込まれている存在だった。わたしと同じく本好きな母の影響である。

ずらりと並んだ本の背表紙に目を這わせる時間が好きだ。めぼしい本を探しながらわくわくする感じも、目当ての本を見つけた瞬間のよろこびも、棚から抜き取って手にした時の確かな重みも、好きだ。

ぱらぱらと数ページめくってから借りるのを決めることもあるし、表紙やタイトルに惹かれて即決することもある。左腕にどんどん積み重ねながら、制限冊数いっぱいまで借りるのが常である。


わたしが好きな作家の共通点は、感情の機微をこまやかに描くことである、と最近気がついた。
圧倒的に女性作家が多い。繊細で、綺麗な言葉をつかうひとが好きだ。

ただ、そればっかり読んでいるとどうしてもその人の文章に引っ張られてしまうので、近頃は得意でない人のものも読むようにしている。

 

ここ3.4日で、たくさん本を読んだ。

「月と雷」 角田光代
「静かにしなさい、でないと」 朝比奈あすか
「少女」 湊かなえ
「ひなた」 吉田修一
「もう一度生まれる」 朝井リョウ
星の王子さまサン=テグジュペリ

まったくの主観と好みと偏見で、思うことをすこし書いていきたい。

もしも気分を害されたらごめんなさい。

 

 

しかし苦手である。朝井リョウ
めちゃくちゃ人気だし、読みやすいし話も面白い。なのにどうにもいけすかないのだ、あの文章。

わざとらしく感じてしまう。内容にはすごく共感できるのに、表現がいちいち癇に障る。わたしもなかなかひねくれているが、まあ、合わないのだろうな。
何度目かのチャレンジであったが、やっぱり無理だった。たまらず途中で読むのをやめてしまったほどである。しばらくしたら、また懲りずに読んでみるんだろうけど。

 

湊かなえの本は中高生の時たまに読んでいたが、手に取ったのは久しぶりである。文章は好みでないが、話がおもしろい。interestingのほうで。

そう来るか、と声に出したくなるようなからくりが、細部にわたって惜しみなく施されている。いつもながら、オチのつけ方は特に圧巻。
個人的には、映像化された時に本領を発揮する気がする。

 

朝比奈あすか。この人の本をはじめて読んだ時はかなり衝撃を受けた。
知らんふりして生きている醜い感情や、認めたくないような本音をあざやかに描き出す。決してわざとらしくなく、真綿で首を絞めるように、じわじわと。

あまりの生々しさに、思わず目をそらしたくなる。なのに、虫歯をわざと噛み締めるように、痛い痛いと思いながら読んでしまうのである。

 

好きすぎるあまり、いま一番読みすぎに気を付けている作家が、角田光代である(多分、今も少なからず影響を受けている)。
訥々と語られる日常。そして、その隙間にこぼれ落ちそうな感情をそっとすくい上げるような言葉の選び方がほんとうに好きだ。

些細な出来事が、光を帯びて輝きだす。

 

語れるほどには数を読んでいないが、吉田修一の本も好きだ。芯があるうえに細部まで丁寧で、力強い。

いちばん大事な部分は、いつも明示されていない気がするのだ。読み切って自分のものにするにはかなりエネルギーがいる。だからこそ、もっと読んでみたい。

 

幼い頃、よくわからなくて途中で投げ出してしまった「星の王子さま」。
大学生協でも展開されているし、大人になってから読んで良かった、とよく話を聞く作品である。
名作であるがゆえに軽々しく感想を言うのも憚られるのだが、まさしく"大人のための童話"であると感じた。

「本当に大切なものは目に見えない」
20年とすこし生きてきて、大切なものに何度か出逢ったからこそ噛みしめられる言葉であった。

 

 

本を読む、ということ。
自分の人生に、新たな物語を取り込むこと。
誰かの人生を、ちょっとだけ生きてみること。


何にも代え難い、至福のひとときである。

 

至福のバターロール

 

今日、運命の出逢いをした。

タイトルからお察しだろうが、残念ながら色恋沙汰ではない。そう、バターロールである。

 

場所は、神戸の「ケーニヒスクローネ くまポチ邸」。
メイン料理にサラダ、パンバイキング、デザートが付いてそのうえドリンクお代わり自由という、夢のようなランチメニューを食べに行ったのである。


10種類以上あるパンの中のひとつ、「もっちりバターロール」。

選んだことに、特に深い理由なんてなかった。強いて言うなら「もっちり」の部分に惹かれた、ということだろうか。わたしは、もっちり、とか もちっと、とか もちもち、という謳い文句にめっぽう弱い。

 

テーブルにつき、まずサラダ(女子だから)を半分ほど食べたあと、例のバターロールに手を伸ばす。
ひとくち分にちぎろうとしたとき、すでに予感めいたものはあった。まるで指先と視覚から「もっちり」が伝わってくるようなちぎれぐあいだったのである。

はっとした。こいつ只者ではない、と咄嗟に思う。

 

もどかしいような気持ちで、ほとんど慌ててひとくちほおばる。

 

 

頭の中が、まっしろになった。

 

 

 

わたしの知っているバターロールではない。表面がてらてら光っていて中身がぱさぱさの、「バター」とは名ばかりである市販品とは似ても似つかぬ。いや、全くの別物と言っても過言ではない。

「バターロール」の名に恥じないバターロール。こんなの生まれてはじめてである。

 

口に入れた瞬間から、バターの芳醇な香りがこれでもかと広がってゆく。先ほどから薄々感づいていた「もっちり」食感が、ここぞとばかりに主張する。ひとくちめにして、バターロールの概念を完全に超えていた。

 


今でこそこんな風に言葉をこねくり回せるが、この時わたしは、大げさでなく一言も発することができなかった。
さらにいうと、目を開けていることもできなかった。それほどに衝撃だったのである。


当たり前だが、ケーニヒスクローネはバターロール屋さんではない。かの織田信成も宿泊したという、格式高いホテルのお店である。

勿論、メインのビーフシチューも、パンオショコラもチーズのパンもクロワッサンも、とても美味しかったことを書き添えておく。写真も貼っておく。

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しかしながら、それらが霞むほどのバターロール(それどころではなかったので写真はない)。

恐るべしである。生まれてきてくれて、ありがとう。

 

 

○ 補足
今日たべたパンの数 : 7こ
ごちそうさまでした。

ほんで、市販のバターロールも大好きです。

 

良質なものを身に付けたい ということ


最近、切実に思うことがある。

自己投資にお金をかけたい、とりわけ、良質なものを身に付けたい、ということである。


デザインや流行、それと安さ。これまではだいたいそんな基準で身に付けるものを選んできた。洋服然り、アクセサリー然り、化粧品もまた然り。
けれども大学生になって一年半、最近ようやっと気づいたのである。

値段は飾りじゃない、高いものにはちゃんとそれなりの価値があるのだと。

たとえば洋服。これまでは欲しいものがあると、似たデザインのより安いものを探して購入することが多かった。
一概には言えないが、しかしそうして手に入れたものはたいていすぐダメになる。
家に帰ってよくよく見ると糸がほつれていたり、数回洗濯すると襟ぐりが伸びてきたり(これはわたしのせいかもしれないが…)、すぐに生地が薄くなってしまったり。

 

数ヶ月前、友人に連れられて行ったのをきっかけに、たびたび藤井大丸に足を踏み入れるようになった。白状してしまうと、わたしが普段着ているものより、ワンランクないしツーランクほど価格帯が上のブランドばかりである。

良質なものは素材からして違うのだと、ハタチのわたしは目の覚める思いがした。勿論常識的な知識は持ち合わせていたが、肌でそれを実感したのである。
なんだこの手触りの良さは。なんだこのしっかりした縫製は。「わー、かわいい」なんて店員さんに相づちを打ちながら、内心それどころではなかった。
わたしもこんなものを身に付けたい。その想いは日増しに大きくなるばかりである。

あくまでも今のわたしにとって重要なのは、他者の目線ではない。ただ「このブランドの服を着ている自分」を買いたいのだ。
良いものを着ている、という自信。それが自身のモチベーションに繋がるのなら、自己満足万歳である。


実は昨日、わたしの憧れリストに入っているお店で、はじめてお買い物をした。
決してめちゃくちゃに高いわけではない。むしろ普段使いしている子も多いようなブランドであるが、それでもわたしはとても嬉しかった。

明日はそれを着ておでかけする予定。今からわくわくしている始末である。
けど、しあわせってこんなもん。

あなたは夏の幻

嘘みたいな距離で、aikoに逢ってきた。5メートルも離れていなかったと思う。
ゆめみたいな30分間だった。

わたしは、aikoのことを偏愛している(それについては話せば長くなるので、またの機会にしっかりと語らせていただく)。
今日は、aikoがゲスト出演するラジオの公開収録に行ってきた。

整理番号は、600ほどある中でなんと22番。まさかの最前列だった。近い。近すぎる。
ライブの時もいつもそうなのだが、わたしには開演前に気持ちが高まりすぎるきらいがある。興奮したざわめきの中、滲んだ涙を慌てて拭う。落ち着け、ただのラジオやでって自分に繰り返し言い聞かせる。しかし高まる。エンドレス。

かわいい、かわいいどうしよう、って口走らずにはいられない。ライブさながらの熱気の中でニコニコして話すaikoは、この世のものとは思えないくらいかわいかった。

思えば、ライブ以外でaikoに逢うのは初めてである。いつも見上げていたaikoが、今日はわたしとほとんど同じ高さで立っている。なんだかとってもちっちゃく見えた。
オチケンさんへのボディータッチが憎い。上目遣いが憎い。たまらない。わたしだって、そのキラキラした宝石みたいな目で、aikoに見つめられてみたい。…けど多分失倒しちゃうだろうな。


aikoなんばパークス来たことあるー?」
わたし「はじめて!」(ドキドキしながら叫ぶ)
aiko「はじめて?」

目を合わせて、笑って頷いてくれた。死ぬかと思った。射抜かれた。
そのあともたくさん目を合わせてくれて、笑いかけてくれたの。こんなことあっていいん。


最後にみんなで写真を撮る時も、

aiko「すごい!みんな写ってるで!」
わたし「写ってるー?」(自分を指差しながら)
aiko「写ってる写ってる!」(天使の微笑みで)
わたし 「 (声にならない叫び) 」


アーティストのライブのあとに「目合ってん!」「指差してくれてん!」という話をすると、「はいはい(苦笑)」という反応をされることがほとんどだろう。しかしaikoに関しては、ぜったいに自惚れではないと断言できる。
あ、わかってくれてる。わたしのことを、見てくれている。一対一で、そうやって繋がれる瞬間がたしかに存在するのだ。こればっかりは、どうやっても言葉では伝えられないのだけれど。


迎えに来てくれていた父との帰り道、yahooニュースにaikoが出ていたと言うので検索してみた。
ライブの熱量やaikoの真摯な想いがダイレクトに伝わってくる、すごく素敵な文章だ。記憶が鮮明によみがえり、胸が熱くなった。わたしもこんなふうにaikoの魅力を伝えられるようになりたいものである。
ぜひ、読んでみてほしい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakahisakatsu/20160925-00062554/


彼女は、本当にファンを大切にしてくれている。
ああ 大好きで泣けてくる。

 

" 僕の今を支える大きな糧 "

 

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大切な人たちのこと

ここ二日間で、懐かしい人たちとたくさん会った。

再会を心待ちにしていた人から、思いがけず会って話ができた人まで。とても嬉しかった。ずっと変わらない、大切な人たち。


昨日は、中3のときのクラスメイトと。
卒業から4年以上経つけれど、今でも頻繁に連絡を取りあっては定期的に集まっている。

大学生になってからは、夜に集まってただ喋ったり笑ったりし、深夜に解散することが多い。
思い出を話し恋愛事情を報告して将来を語る。パターンはだいたいいつも同じ。だけど、年に数回のこの集まりは、わたしの中ですごく重要な位置を占めている。

一人ひとりと、どこか別の場所で出会っていたらどうなっていただろう。多分、今みたいには仲良くなれていないんじゃないか。
赤裸々に話をして、些細なことで喉がいたくなるくらい大笑いできる。そんな関係は築けていなかった気がするのだ。


偶然と、タイミングと、きっかけと。そんなものが重なってはじまる、出会いってふしぎだなあと思う。

だからこそ、たとえ離れてしまっても大切に思い返す存在であってほしいのだ。
わたしが出会った人は勿論、わたしに出会った人にとっても、そうでありたいと強く思う。

映画を観る ということ

映画館で映画を観たあと、世界の色が違って見えることがとても多い。
見慣れた景色にどきどきしたり、はじめてなのになつかしい気持ちに出逢ったりするのだ。


感情をうまくまとめきれずに、ぼうっとしたまま劇場を出る。すると、たいてい外の世界は嘘みたいにあかるくてまぶしい。

現実と物語のはざまを行きつ戻りつしながら、ゆっくりゆっくりと余韻を噛み締める。

映画が終わったあとに、余韻に浸るための時間を設けてほしい、なんて考えたりする。劇場は暗くしたままで、誰も席を立ったりおしゃべりをしない空間で。
心ゆくまで物語を回想し、登場人物に想いを馳せる時間があったらどんなにいいだろう。

と、偉そうなことを書いたわりに、決して頻繁に通っているわけではない。せいぜい年に2.3回、その程度だ。
最近足を運ぶ機会が多かったので、色濃く実感した次第である。


話題作を立て続けに。

劇場ならではの迫力と、サウンドの疾走感がたまらなかった。再びあの快感を味わいたいがために、もう一度観に行きたい「君の名は」。

世界観がとても綺麗で、せつないけれどあたたかい気持ちになれた。優しさの中に、人間の強さが垣間見えた「聲の形」。

むき出しになった人間の感情と、行き場のない絶望を肌で感じた「怒り」。心にずしんと響く作品であった。


日常を離れ、頭をからっぽにして物語の世界に没頭できる数時間。贅沢なことだなあと思う。
これもまた自己投資。大切にしていきたいものである。