未来を拾いに
なんとなく夜更かししちゃうのは、その一日に満足できていないからだ、って前に何かで見たことがある。
どうやらちょっと風邪気味らしい。しかも朝からバイトだから、今すぐにでも寝たほうがいいのはわかっているんだけれども。
答えのないことを考える時間はすごく大切なんだろうし、楽しいことでもあるはずなのに、とてもじゃないけれどそんな余裕なんて全くなかった。
のみこまれてしまいそうな夜中3時。
正直今も、抜けきれていない。
いつか笑い飛ばせるんだろうか。
あいこめとツイッターと、カウントダウンライブのDVDで、どうしようもない位aikoを好きな気持ちがこみ上げて溢れて泣けてきて、
でも、久しぶりにやって来た通常営業の苦しさに、なんだかちょっとだけほっとした。
でた、aikoを好きすぎて泣けてくるやつ!
おなじみのやつ! って思わず苦笑した。
悶々とか鬱々とか、そんな言葉がぴったり当てはまるような絶賛ネガティブの渦の中、まっすぐに届いたaikoの言葉が、あまりに素直で素敵だから。
何年もずっとわたしの根底にあり続ける、大切な気持ちさえ忘れかけていた気がした。
本当にほんとうに、この人のことが大好きだ。
生き様が好きだ。人を想う気持ちが好きだ。ファンへの惜しみない愛情が好きだ。
考え方も言葉も存在も、そのすべてがわたしの指針で心の支えなのだと、改めて気づかされた。
逃げずにちゃんと向き合おう。明日も明後日も、そうやって。
答えなんか見つかるかどうかわからないけれど、きっといつかその日々に、意味が見つかるのだと思いたい。
「今度までには」の、ストリングスが奏でる裏メロがたまらなく好きで、そこばっかり聴いてまう。思わずそっち歌いそうになる。
寒いね。
ぜんぶ秋のせいだ
「華奢」という言葉への憧れは、多分永遠に続くのだろうと思う。
まず、言葉そのものがすごく可憐でかわいらしい。華奢、きゃしゃ。
薄い肩やほっそりしたウエスト、ちいさな顔に、はかなげな輪郭。ただ「細い」というのとは違う。同性でも思わず守ってあげたくなるような、独特な雰囲気。
どれも持ち合わせていないから、いいなあ、とよく思う。
憧れなんていう生やさしいものではなく、もっと猛烈に羨ましいものがある。
それはね、食べても食べても太らない体質。
自分史上最高ではなかろうか、というほど顔が丸いことには薄々気がついていて、何度もなんども痩せようと決意したが、その度挫折を繰り返してきた。
だって、食べることが好きなのだ。ほんとにほんとに好きなのだ。
並外れて胃が大きい、というわけではない。
むしろ満腹になる量は人とあんまり変わらないのだが、お腹がいっぱいになろうと食欲が止まらない、というのが困ったところである。
別にお腹空いてないけどなんか食べたい、なにかしら舌で味わっていたい。
そう感じる頻度や思いの強さが桁違いなのだ、きっと。
「やわらかなレタス」という江國香織さんのエッセイに、「そう!そうそうそう!!!」と、首がもげそうなほど頷きたくなる一節がある。
「お昼が遅かったので全然空腹ではなかったが、胃ではなく舌の欲望に負けて、鯵丼ときゅうりサラダも作ってたべた。好きなものをたべられるというのは、何ていいことだろう。」
格段に好き嫌いの減ったわたしが、今でも唯一たべられないのがきゅうりだが、それはこの際どうでもいい。
めっちゃくちゃわかる、
『胃ではなく舌の欲望に負けて』。
あまりの共感できるので、ほとんど口癖みたいになってしまったほどだ。
「ちゃうねん、お腹はいっぱいやねんけど口が食べたいねん…」
??? みたいな顔をされることもよくあるのだけれど、いや逆になんでなん? って思ってしまう。
お腹がいっぱいになったらそこで食べるのをやめられる人(もしくはお腹がすくまで何も食べずにいられる人)を、わたしは心底尊敬している。そして、心底羨ましい。
普段無意識に手に取るたべものを思い返してみると、愕然とするほど甘いもの率が高いことに気づく。
たぶん砂糖依存気味なのだろう。朝パンケーキ、昼パフェ、夜菓子パンとか、全然へいき。むしろ間食にシュークリームとかチョコレートとかアイスも喜んで食べますって感じなのだ。
甘いものが好きなのは昔からだけれど、大学生になってからというものどんどん加速していっている気がする。どこまでいくのか全く見当がつかなくて、我ながらちょっと恐ろしい。
甘いものを美味しいと感じられなくなったらどうなるだろう、ってたまに考える。
多分みるみる痩せてくやろうな……。けど、そんなのわたしじゃないな!!
めっちゃ食べるのに細い人、いますよね。
そういうわけで、ものすごく羨ましいのだ。
もしも一個だけ魔法が使えますって言われたら、最終候補の五つに残りそうなくらいには切実に思う。三つって書こうとしたけどそれはちょっと迷ってもたわ。
痩せたいと食べたいの狭間で。
明日も、生きる。
週末のこと。
おいしいものをたらふく食べて、いっぱい歩いて、素敵なものをたくさん見た話。
昨日。
友達が通う大学の学祭へ行きました。しかしあまりの人の多さに圧倒され、すぐ音を上げる現役大学生。
早々に切り上げて梅田へ。
ずっと行ってみたかったMAX BRENNER!
看板メニューのピザにチョコフォンデュ、ホットチョコレートという夢のようなセット。
最高か。いや最高か。
甘さ控えめなフォンデュのチョコが、あぶったことであつあつとろーんになったマシュマロと絶妙にマッチして、顔ももうぜんぶ一緒くたにとろけます。
そして、ピザのおいしさたるや。ほんっまに感動した。
生地がちょっとベーグルっぽくて、歯ごたえしっかり。分厚めのもっちもち。
マシュマロとチョコレートとクリーム(カスタードかな?)との相性が素晴らしい。目開かへん。
本音を言うとあと2周はいけた。
その後(わずか3時間後)、高校時代の友達もう一人と合流し、イタリアンな夜カフェへ。
生ハムのムース、アンチョビバター、カマンベールチーズ、カプレーゼ、海老のトマトクリームがバゲットに載った前菜やら、
マルゲリータやら、
他にも
濃厚さがたまらなかった、たっぷり茸とポチーニ茸のクリームリゾットやら、
海老と木の子のアヒージョ(バゲット付き)やら、
とにかくおしゃれでおいしいものたちを、すいすいとお腹に収めてゆきました。炭水化物率。
たのしいお酒も嗜んだ。
星がとっても綺麗に見えた帰り道。
今日。
端っこが見えないくらい広い敷地いちめんに、かわいい雑貨やアンティーク家具や、おいしいお菓子のお店がずらり。
中でもたべもののコーナーが素晴らしかった (またか)。
どこのお店もめっちゃ試食を勧めてくれるもので、あれこれ目移りしながら食べ歩き。
はちみつ、シフォンケーキにミルクティージャム、ドライフルーツと焼き栗とベーグル。
もう楽しくって仕方なかった!
本店が京都にあるというベーグル屋さんで、クランベリーとホワイトチョコのベーグルと、
インド料理屋さんで、複雑な味のハンバーグのようなもの(香辛料がたくさん入ってた)を、ナンでくるんだやつを買いました。
待ってる間にもどんっどん試食を勧めてくれるおかげで、バターチキンカレー2杯とグリーンカレー2杯に、チャイまでいただいてしまったよ。
このカレーがまた美味しかった。ココナッツの風味が効いてるうえに、こっくりとなめらかな口当たり。すごくまろやかな味でした。
ハンドメイドの雑貨やアクセサリーもすっごくかわいかった!
目移りに目移りを重ね、結局あれこれ購入。
気づいたら2時間近く経ってました。
もうここにおったら際限なくお金を使ってしまう……と、半ば無理やり会場をあとに。
そのあとは万博公園をぶらぶらしました。
大好きな赤い靴。
(紐結ぶのが下手すぎて1日3回はほどける)
音楽を聴かずにゆっくり歩いたのは久しぶりな気がする。
鳥の声と風の音がそこらじゅういっぱいに満ちてて、
何にも追われない穏やかな時間を過ごしました。
ゆったり。
コスモスがまだ咲いてて嬉しかった!
巨像恐怖症ゆえ、実は太陽の塔が直視できません……
ぎりぎりいけるライン。
思いのほか万博公園を満喫してしまい、エキスポシティ行けず、、
そのあとはshishamoの学祭ライブ。
なんと7列目……!とても近かった!
aiko以外のライブが久しぶりすぎて、
手拍子なんだか指差しなんだか
いやそもそも指差しではなく手を振ってる、、?
と、
前が関係者席だったのもあって、振り付けがよくわからんままでしたが、
大好きな曲もいっぱい聴けて楽しかったです!
かっこ良かったしめっちゃかわいかった。
以上、しあわせな遊び疲れ日記でした。
ちなみにiPhoneのアプリによると、ここ2日で32km歩いてました。
そりゃふくらはぎ痛くなるわ。
ときのあいだ
最近読んだ本の中に、すごく素敵な文章があった。
「やりたいと思ったときが、時間のある時なんだ。そういうのをしなくなったら、時間の奴隷になっちゃうよ。やりたいと思ったときに、ぱっと手を出さないと届かなくなることがあるんだ。」
(「王国 その1 アンドロメダ・ハイツ」よしもとばなな )
時間というのは、疾く過ぎてゆくようであり、また遅延しつづけるようでもあり、いつも同じ尺で流れてゆかない。
(「きことわ」 朝吹真理子 )
時間ない忙しい、が口癖みたいになっている気がする。わたしも、周りも。
大学生の忙しい理由なんて大体みんな同じなんだから、できてる人がいるのにそれを言い訳にできないなんて、ほんとはおかしいのだ。
時間がないんじゃなくて、つくろうとしていないだけ。これは自分自身への戒めでもあるけれど。
やろうと思えば、なんだってできる。本当にやりたければ、本当に好きならば。時間はつくれる。
たとえばわたしは、どんなに忙しくても本を読むことだけはやめない。
好きだから。
自分の行動が、全部そんな単純で清々しい思いだけで成り立っていけばどんなにいいだろう。
なんて、ふと思う。
わりと近い生き方ではある気がするけども。笑
時間をテーマにした作品でぱっと思い浮かぶのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」。
ちいさいころ、モノクロでシュールに描かれたあの本の表紙が、なぜかものすごく怖かった。無造作に置いてあるのを見るだけで怯えていた記憶がある。
それから少し大きくなって読んだとき、お話がよくわからなかった。
もうすこし大きくなって読んだとき、わたしはどう思ったんだったかな。正直よく覚えていない。
また読みたくなったので借りてこよう。
実体がないから、刻むんだ。
これもまた、本当に大切なものの一つなんだろうな。だって、目に見えないから。
楽しいと一瞬で、つまらないと永遠で。それは誰しもが持っている感覚なんだろう。
だから、信じられないスピードで過ぎ去った10月をわたしは祝福したい。何が、というわけでもないのになんだか常に忙しくて、でも大学生になっていちばん遊び、いちばん沢山お金を使った一ヶ月だった気がする。
目まぐるしく過ぎる毎日も、くるくる変わる自分の感情も、結局なんだかおもしろかった。
良くも悪くも、うわあ生きてるんやなあ、って思える瞬間でいっぱいだった。
時が経つのが日に日に早くなってる気がします
だけどそれは毎日を誇りに幸せに生きた証拠
(「その目に映して」aiko ♡ )
ほんまにそう思う。 (思いたいー)
さらば10月!
運命
外に一人でいるとき、無意識に頭の中で文章を組み立てる癖があることに気がついた。
たぶんすごく変だと思う。
目に映る景色、感じたこと、見えるはずのない自分の歩く姿なんか。
考えて組み立てて、その場限りで消えてゆくものを作り続けている。
もう一つ。
わたしが猛烈に文章を書きたくなるのは、自分の中の強い感情にふれたときだということも、今日はじめて知った。
怒りでも喜びでも興奮でも絶望でも、何かしらの感情が極度に高まったとき、それを形にしたい、しなければという衝動に駆られる。いまこの瞬間の気持ちにはもう二度と帰って来られない、と思うのだ。
きっと明日には忘れてしまうだろう。こんなにも激しく思うことがあるのに、それがなかったことになってしまうのはすごく嫌だ。
生きた証なんて言葉をつかうと仰々しいし恥ずかしいけれど、大げさに言えばそういうことなのだと思う。
感情の軌跡は、わたしが今日を、いまこの瞬間を生きた証拠だ。
方法はいくらでもあるんだろうけど、わたしは言葉で残したい。
何年もそうして積み上げてきた自分の言葉に、救われる瞬間がたまにある。
そうやって、いつまでも自己完結でいるんだろうか。
「無名のままで、生きるのか。」っていう宣伝会議のキャッチコピー、めっちゃいいやんな。ぐさっとくる。
無名のままで、生きるのか。
あとから読み返したら死ぬほど恥ずかしそう。
今日おもったこと。
ああ、思い切り生きた。
毎日そう思えるように生きていきたい。
うしなう、はじまる
最近読んだ本たち。
「かわいそうだね?」 綿矢りさ
「君がいない夜のごはん」 穂村弘
「世界から猫が消えたなら」 川村元気
「眠れる美女」 川端康成
普段読まない作家を意識して適当に借りてみたのだけれど、わりとどれもおもしろかったので嬉しかった。
特に「君がいない夜のごはん」はめっちゃくちゃおもしろかったです。わたしがいちばん好きなジャンル、" 食べ物エッセイ " の極み。
歌人である作者が、料理雑誌に連載していた文章をまとめた本らしい。
リズミカルな文体に、思わずにやりとしてしまう表現、登場するたべものたちが鮮やかに浮かんでくるような描写がすごく好き。
とっても読みやすいのでオススメします! 手元に置いて、毎日寝る前とかに読みたい本。
映画プロデューサーの川村元気さんが初めて書いた本だそう。
同名の映画の原作です。
話も良かったけれど、主人公の母親がよく口にしていた言葉が特に印象に残っている。
" 何かを得るためには、何かを失わなくちゃね "
ほんとうにそうだと思った。
少数の器用な人を除けば、対価なしに欲しいものを手に入れるのはとても難しい。
失ってまで、欲しいもの。
失うことで、手に入るもの。
たとえば、
個性を体現化したら万人受けはできないだろうし、
恋人同士になりたければ、居心地の良い関係を捨てることになるかもしれない。
お金を稼ぐには自分の時間と労力を売らないといけないし、夢を追いかければ安定は遠のいてゆくかもしれない。
でも。
それでも、手に入れたいものがあるのなら。
と、考えさせられた。
一見当たり前のことみたいだけど、その基準は多分人によって全く違う。
得るために失うものって。
欲しいからこそ手放すものって。
ぜんぜん関係のない話だが、小学校で「失」という漢字を習った時に、父と交わした会話をふと思い出した。
小4のわたし 『「失」って、「矢」とほとんど一緒やのになんでこんなに習うの遅いん? 「矢」は一年生で習うのに』
父 『一年生に「失う」の意味がわかるか? 漢字の簡単さだけで決まるんじゃないんやで」
なるほど。確かに一年生にはわからへん。
うしなう。
そこからはじまる。
いま手元にあって読みかけてるのは、
です。
まだまだ読書の秋を謳歌するぞ。
ことのはのちから
たった一行で、人の心は動く。
「誰かの心を動かす」
「自分の心が動く」
多分そこには、むつかしい言い回しや秀逸な表現なんか必要ないのだ。
本当に大切なものは、目に見えない。
その意味を、今日改めて実感した気がする。
はい。
新海監督の作品が観たくて、借りてきた。
「言の葉の庭」
言の葉 って、綺麗なことばだな。
同じ作品を続けて観たのははじめてだった。
一回めに観た直後は、ここで終わり? って、正直すこし物足りなく感じてしまって。
ドラマ一本分にも満たない長さだったので、そのまま二回めに突入した。
空白が余韻を作り出す。
それはなんだか、「休符を演奏する」ということに似ている気がした。
雨の音や、電車の音。
時に包み込むように、時に突き放すように奏でられる旋律。
鳥や虫の鳴く声に、人間の話し声。
絶えず何かしらの音が流れていて、無音の瞬間の方が断然すくないのに、ふしぎな静けさがたちこめている映画だと思った。
六月。関東が梅雨入りしたあと。
軽やかなピアノの調べに乗せて、画面が次々と切り替わるシーンがすごく好きだった。
料理をしているときや鉛筆を走らせているときの、秋月くんの手元も。
空が怒り狂ったみたいな大雨に閉じ込められて、まるで世界に二人しかいないような場面も。
テーブルにお皿を置いたときの こと、というあたたかな音も。
きれいな余韻を残して終わる。
詰めていた息を、ふっと吐き出したくなるような。
とても好きな映画でした。
" 世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。"
なんだか「耳をすませば」に重なるものがあったな。
ひさしぶりに観ようかな。