食べる ということ
あたたかいものとあまいものは、どうしてこうも人をしあわせにするのだろう。
あついコーヒーが喉をすべり落ちると、すぐさま体じゅうに幸福の波紋が広がってゆく。ふしぎなくらいみちたりた気持ちに覆われ、なんの過不足もないのだ、という無敵の気分に包まれる。
たとえば、言葉にできないほど漠然とした不安だとか、眠れないまま朝を迎えてしまった悩みの種だとか、そんなの取るにたらないちっぽけなことだという心地にさせられるのである。
あまいものもそう。ゆるく立てられたやわらかい生クリームに、シロップがたっぷりと染み込んだ、あまいあまいパンケーキ。わたしだって、ひたひたのシロップに浸かるみたいにしてあまやかされてみたいものである。
大きなひときれを、大きな口を開けて思い切りほおばってみる。ここにあるのは、かたちある幸福そのもの。あまりのことに、わたしは目を開けていることだってできなくなってしまう。
なんて、なんてしあわせなんだろう。
これだからわたしは食べることが好きなのだ。生きるための手段と言ってしまえばそれまでだし、その重要度は多分人によって全く違う。けれども、わたしは言葉の力と同じくらい、たべものの力を信じている。
時に沁みわたるように、時に鼓舞するように、時に寄り添うように。そんなふうにして、たべものたちは、わたしたちの生きる糧となる。
そしてこれまたふしぎなことに、一新された気持ちは、食べ終わったあとにもふんわりとまとわり続けるのである。
誰かになにか言われたわけではないのに、よしがんばらなくちゃって思えてしまったりする。少しだけ違う角度から世界を見てみようかって気分になれたりするのだ。
あーおいしかった、で済ませてしまうのは、なんだかちょっぴり物足りない。
そんな出逢いを求めて、今日もわたしは食べている。