わたしらしさに彩りを。

日々のよしなしごとを綴ります。食べることとaikoと言葉をこよなく愛する女子大生。

京都みたいな女に生まれたかった

 

 

京都は、あざとい女だと思う。

 

 

気まぐれで自己中で、自由奔放で。

 

「風薫る五月?そんなの知らない!」とでも言わんばかりに

容赦なく日差しを照りつける。

 

人々の気力と体力をことごとく奪い、

真夏日の連続で辟易させながらあわただしく皐月を終えたかと思えば

 

息つく間もなく、

長袖でないと耐えられないような冷え込みで我々を翻弄しやがる。

もう六月、暦のうえでは立派な夏だっていうのに。

 

 

とはいえ、まあ暑くない方がやはり過ごしやすい。

肌寒ささえ感じる空気をありがたく甘受していると、

 

またもそんな我々をあざ笑うかのように、気温は突然の30℃超え。

 

むっとした熱気がアスファルトから立ち上ってはそこらじゅうにたちこめる。

 

てっぺんからは、これでもかと刺すような日差しが降り注ぐ。

 

 

もう、いい加減にしてくれ。

 

 

冬は冬で、冷凍庫の底みたいに冷え固まり、身を切るように寒いのだ。

 

 

京都嫌いになってやるぞ、と思う。きっと誰もが思う。

 

 

 

 

でも、

 

彼女は美しい。

 

 

そして、信じられないくらいの魅力を内包しているのだ。

 

 

 

どうしたって人々は、どうかひとめ見たいと思ってしまう。

 

できることなら触れて、感じて、味わいたいと切望する。

 

 

 

 

歴史を携え文化に精通し、知的な一面で魅せたかと思えば

 

最先端の流行にも敏感で、それをまたこれみよがしでなく

あたかも「わたしが発信地ですけれど」

とでも言わんばかりの自然さで身にまとう。

 

食に関してはなんでもござれ。

見つからないものなんてきっとない。

 

 

老若男女、さらには国籍すら問わず、

誰もを魅了して捉えて離さない。

 

 

京都を訪れた者はみな、口をそろえて自慢する。

 

「いいところだった」「行ってよかった」とほめそやす。

 

 

住民もまた然り。

 

それはそうであろう。世界的に名の知れたところに居を構え、

いちばん近くで魅力を享受できるのだから無理もない。

 

 

 

 

 

あざとい。

 

まったくもって、あざといのである。

 

 

 

これでもかと溢れんばかりのポテンシャル。

 

それを、決してわざとらしくなくあくまでも上品に、

したたかな計算高さをもってして振りまくところ。

 

 

媚びず尽くさず、奔放にふるまいつつも、

来るもの拒まずでみなを寛容に受け入れるところ。

 

 

けちをつけようものなら、

その堂々たる人気と否定しようのない実力で跳ね返してくるところ。

 

 

 

そして、

 

それらをわかっていてもなお、好きにさせずにはいられないところ。

 

 

わたしたちは、彼女に構わずにはいられないのだ。

 

あまりに多彩な魅力はときに妬ましくもなるけれど、

やっぱり気を惹きたくて、あわよくば受け入れてもらいたくて。

 

 

 

 

 

 

まったく恐ろしい女である。

 

 

 

 

わたしは、京都みたいな女に生まれたかった。