わたしらしさに彩りを。

日々のよしなしごとを綴ります。食べることとaikoと言葉をこよなく愛する女子大生。

ひとりカフェ について


1年ほど前まで、ひとりでおでかけするのがとても苦手だった。

買い物や映画もかならず誰かを誘っていたし、食事をするなんてもっての外。そりゃ時間つぶしにマックくらいは入れたが、おしゃれなカフェで優雅なひととき、なんて到底叶わぬ夢だった。

ひとりが苦手な人に共通することかもしれないが、たぶん変に自意識過剰なのだと思う。ひとりでいるところを人に見られるのが嫌だったのだ。
もし食事中に失敗(フォークを落とすとか)したらどうしよう、お会計で手間取ったらどうしよう、などといらぬ心配を重ねてびびっていた。

しかし、知らずしらずのうちに難なく克服していたのである。大きな理由の一つは、カフェでアルバイトを始めたことだろう。

わたしが働いているのは若い人に人気のパンケーキ屋さんで、ひとり客もなかなかに多い。そして接客を重ねるうちに、ふと思ったのである。

誰もひとり客のことなんて気にしていない。

もちろんいい意味で、である。うわあの人ひとりで来てる!友達いないのかな、なんて夢にも思わないし、たとえばその人がナイフを落とそうが、新しいものお持ちしますね、と声をかければ済む話なのだ。

そう気付いてからは、ずいぶんと気持ちが楽になった。美味しいものを大好きな人と一緒に食べることに勝る幸せはない、というのがわたしの持論ではあるが、好きなものを好きな時に食べられる、というのはなんと強烈な自由であろうか。

そんなわけで、今日は二軒もカフェを巡ってしまった。全くもって自由である。

 


ここで、"ひとりカフェ" について常々感じていることをもう一つ。

好きなものを好きな時に食べられる、と先ほど書いたが、果たして本当に理由はそれだけなのだろうか。

非常に面倒くさいことを言い出すようだが、最近の若者にはファッション的な要素で "ひとりカフェ" を取り入れる風潮があるように感じるのである。
そしてお決まりの写真撮影→SNSに投稿、という流れ。もちろんそれが悪いとかださいとかいうわけではない。ただ、ふと思うのである。

この子は(わたしは)、本当に本日のキッシュ700円也と、ブレンドコーヒー400円也を味わいたくて訪れたのだろうか。
ひとりでふらっとオシャレなカフェに立ち寄って、小腹を満たしたのち本を片手にコーヒーをすする。1100円かけてそんな自分を買っているのかもしれない、と。

まあ結局のところ、その人に見合った利益が得られるのならば理由なんてなんだっていいのである。わたしだってそうだし。


こんなうがった見方をしているようで、お決まりの「インスタグラムでシェア♡」は欠かさないのだから、わたしも立派な若者の一員である。

食べる ということ

 

あたたかいものとあまいものは、どうしてこうも人をしあわせにするのだろう。

 

あついコーヒーが喉をすべり落ちると、すぐさま体じゅうに幸福の波紋が広がってゆく。ふしぎなくらいみちたりた気持ちに覆われ、なんの過不足もないのだ、という無敵の気分に包まれる。

たとえば、言葉にできないほど漠然とした不安だとか、眠れないまま朝を迎えてしまった悩みの種だとか、そんなの取るにたらないちっぽけなことだという心地にさせられるのである。

あまいものもそう。ゆるく立てられたやわらかい生クリームに、シロップがたっぷりと染み込んだ、あまいあまいパンケーキ。わたしだって、ひたひたのシロップに浸かるみたいにしてあまやかされてみたいものである。

大きなひときれを、大きな口を開けて思い切りほおばってみる。ここにあるのは、かたちある幸福そのもの。あまりのことに、わたしは目を開けていることだってできなくなってしまう。

 

なんて、なんてしあわせなんだろう。

 

これだからわたしは食べることが好きなのだ。生きるための手段と言ってしまえばそれまでだし、その重要度は多分人によって全く違う。けれども、わたしは言葉の力と同じくらい、たべものの力を信じている。

時に沁みわたるように、時に鼓舞するように、時に寄り添うように。そんなふうにして、たべものたちは、わたしたちの生きる糧となる。

そしてこれまたふしぎなことに、一新された気持ちは、食べ終わったあとにもふんわりとまとわり続けるのである。

誰かになにか言われたわけではないのに、よしがんばらなくちゃって思えてしまったりする。少しだけ違う角度から世界を見てみようかって気分になれたりするのだ。


あーおいしかった、で済ませてしまうのは、なんだかちょっぴり物足りない。

そんな出逢いを求めて、今日もわたしは食べている。

 

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