わたしらしさに彩りを。

日々のよしなしごとを綴ります。食べることとaikoと言葉をこよなく愛する女子大生。

そして生活はつづく

 

重い体を引きずるようにして起き上がり、ふと鏡をのぞくとぎょっとするほど顔が土気色だった。

不健康という言葉をそのまんま具現化したような色。

たっぷり寝たにもかかわらず、目の下には落ちくぼんだような影ができ、頬はげっそりとこけている。

と言いたいところなのだが、たった一日や二日の食欲不振でそれが叶うことはなく、相変わらずの丸顔がじいっとこちらを見つめているばかりであった。

 

エアコンにやられたのか、暑気にやられたのか、はたまたその両方を統合したいわゆる夏風邪というものなのかはわからないが、絶賛体調不良現在進行形である(ぜっさん・たいちょうふりょう・げんざいしんこうけい)。

喉が炎症をおこして真っ赤に腫れている(ような気がする)。痰のからんだ厭な咳が出るたび、焼けつくような痛みがわたしを襲う。体が怠くおでこは熱く、頭もずしりと重い。

 

発熱というのは、非常に厄介かつあまり人に言いふらすのはよろしくないとされているものだが、その中でもちょっとおもしろいなあと感じることがある。

いつも見ている景色や歩いている道が、ちょっと違ったふうに感じられませんか。

空気の手ざわり、皮膚にふれる外気、目に映るものの色やかたち、そして、自分の周りに満ちたありとあらゆる匂い(鼻が詰まっているとかそういうことではなく)。

 

たとえば今日の朝、授業に向かっていたときのこと。

午前9時を回ったばかりだというのに、気温は30℃超えである。

いつもならばとめどなく流れる汗に苛立つところだが、今日はなんだか違っていた。

てりってりの直射日光に打たれてくらくらしながらも、わたしはそれをよけて歩いたり、ましてやクリームを塗って日焼けを防ごうだなんてちっとも思わなかったのだ。

もはや思考回路や感覚が麻痺してるんじゃないかという気がしなくもないが、不思議なことにいつも感じる「暑い」とはちょっと違うのである。普段はわたしの表面を覆っている衣服や皮膚に直接刺さってくるはずの暑さが、なんだか今日は体のすこし外側にぶつかっているような。

「暑い」ことに変わりはなく、汗だってよどみなく流れているのだけれど、なんだか非現実的な感じがぬぐえない。

あと、地面からちょっと浮いたところを歩いているような感じがする。これは、発熱時には誰しも経験したことがあるのではないだろうか。

ふわふわとした足取り、といえばなんとなく聞こえがいいが実際そんなかわいらしいものではなく、わたしは酔っ払いのようにふらふらと蛇行しながら大学へと向かった。

 

 

「病んでますね」と後輩に言わしめるほど荒れ狂っていた精神状態がやっと落ち着いたかと思えば、今度はその容れ物の番である。

高校まではせいぜい季節の変わり目くらいだったのに、ひとり暮らしを始めてからというもの頻繁に熱を出すようになった。少なくともこの半年間で3~4回はそういうことがあり、こんなにやわな体ではなかったはずなのになあと首をひねるばかり。

今日も今日とてやむを得ずアルバイト先に欠勤の連絡を入れ、何も頭に入らぬままとりあえず1限目の授業を受講するという任務を達成した後、わたしは薬局で総合風薬「プレコール 24錠」を購入し、京都市民御用達のスーパー「フレスコ」で買い物を済ませ、ひゃーしんどい!!という感じでなんとか自宅に帰りついた。

「体調を崩しても食欲は落ちない」ということに悩みつつもこれまで盛大にネタにしてきたわたしをどうか笑ってください。

まったくもって、おもしろいほどに食欲がないのである。でも「風邪で食欲なくてぇ~~~」とほざいてかわいそうぶっていても事態はなんら好転しない。さらに悲しいことには、実際何一つおもしろくないので誰一人笑ってくれやしない。

ここはひとり暮らしの宿命。自分で自分を食わせて、元気にしてやるしかないのである。

早々にそう悟ったわたしは、猛然と雑炊を作って掻き込んだ。食後にはしっかりとプレコールも飲んだ。枕元には「体に一番近い水・ポカリスウェット」(こんなんやっけ?)のペットボトルを準備した。冷房は、体と環境にやさしい28℃設定である。なにもかも完璧だ。朦朧とした頭で満足げにそう思い、わたしは一人眠りについた。

 

ゆるゆると3時間ほど眠り、目が覚めた。

ぼやっとしたままポカリを飲み、トイレで用を足して手を洗っていると、山のようになった洗濯物が目に入った。

薬が効いているのか、さほどしんどくはない。これはもう今やっちまうしかないと思ったわたしは、半ばやけくそで洗濯機のスタートボタンを押した。

フレスコで調達してきたプリンのようなものをだらだら食べているうち洗濯が終わったので(信じられないことに食べきれなかった)、干しっぱなしだった洗濯物をかたづけた後にだらだらと干し、再び定位置に腰を下ろす。

 

と、あまりの部屋の汚さに愕然とした。

まず、食事兼読書兼パソコン兼その他諸々も兼用である正方形の机の上は、面積の3分の2がモノで埋め尽くされている。

ティッシュペーパーやリモコンなどはいいとして、雑誌と本と日記帳とクリアファイルに加えて、メイクポーチ、コンビニでもらったおしぼりやビニール袋、1か月ほど前から出しっぱなしのハンドクリームやさらには3Dメガネまでもがひしめいているのである。

そのまま机の右側へと速やかに視線をスライドさせると、床の上にはカーディガンやバイト用の服やトートバッグやポーチやスカートがぐっしゃあと散乱している。

左側には教科書類やブックカバー、文庫本、フリーペーパーやビニール袋やA4サイズの封筒や届いた郵便物などが、これまたぐっしゃあと散らばっているのだ。

 

これはひどい。女子力の「女」の字、さらにいうなれば「くのいち」の「く」の字もない有様である。

 

ちらりと自分の座っている場所に目をやると、昨日の晩から敷きっぱなしである布団の上である。

(いやさすがに普段はちゃんとたたむんやで?ただ今日はほら、やむを得なかった)

不意に、先日読み終えたばかりである『夜は短し歩けよ乙女』の主人公が、万年床で日々を過ごすシーンの描写が脳裏に浮かぶ。

 

布団の中でテレビを観、布団の中でメシを喰い、布団の中で勉強し、布団中で施策に耽り、布団の中でジョニーを宥める。まことに「万年床」こそ、我が唾棄すべき青春の主戦場であった。

 

勿論これは、ジョニー云々も含め主人公が男子大学生であるからおもしろおかしいのであって、現役女子大生がいかに忠実に再現したところで魅力のかけらもありますまい。

ただ、わたしは自分の現状と重なる部分を見出した末「時にはこんな自堕落も悪くない」という結論に至ってしまったのだから困ったものである。

 

 

眠ることにも飽きたので、近くに置いてあった本を引き寄せてはぱらぱらと読んだ。

何度も読んだことのある本を二冊ほどゆるっと拾い読みし(わたしには同時進行で何冊も読んでしまうくせがある)、何気なくこの間借りた本に手を伸ばした。

 

『そして生活は続く』 / 星野源

 

はじめは、それまでと同様ゆるっと読んでいた。

しかしたちまちぐんぐん引き込まれ、読み終えるころには「わたしも書きたい」という強烈な欲求に駆られていた。

おもしろかった。

ものすごくおもしろかったのだ。

ばかみたいな感想だが(そして周知の事実かもしれないが)、

「この人、ただものじゃないすごい人だ」と思った。

 

そう思うのには理由がある。

 

星野源は、元来きっと普通の人なのだ。

さっき書いたことと思いっきり矛盾しているようだが、そうではない。

演劇、音楽、文筆と多岐にわたる活動をしていて、今や一流の芸能人として活躍している彼もまた、わたしたちとなんら変わらない生身の人間なのだということ。

生まれつきの、たぐいまれなる才能に恵まれた人間ではないのである。

 

もがいてあがいて苦しんで、「もー死んじゃえばいいじゃんオレなんかさああ」(本文より)って思ったりもしながら、それでも必死こいて負の感情を正に転換し、それを才能へと昇華させ続けることによって、なんとか生きながらえている。

自分を半殺しにすることで生じたエネルギーを使って、自分を生かしているのだ。

星野源のそんな生き方は、決して誰にでも真似できるものではない。彼がさらけ出したどろどろした黒い感情の中には自分に通ずる部分がたくさんあったからこそ、それがどれだけ難しいことか、よくわかる気がした。

 

視力がものすごく悪いという星野源が、レーシック手術を受けるか否か悩む場面がある。

単に自分の体にメスを入れるという恐怖だけではなく、視力が上がることによって自分が変わってしまうことへの怖さが生まれるというのだ。

 

なぜそこに恐怖を感じるのか。それは、私自身が自分の屈折した部分に「食わせて」もらっているからだ。

今まで自分が受けてきた嫌なことや、ストレス、怒り、不満などによって私はいつしか屈折した考え方をするようになった。しかし、そこから生まれたアイディアを原動力にものを作ってお金を稼ぎ、ご飯を食べているという部分もあるにはある。

(中略)

たとえば私がいま何をしていても気持ちよく、健康で、お金もあって、不自由なことなど一つもない暮らしをしているのならば、表現なんてしなくても全然いい。

生きづらさを緩和するために表現をするのだし、マイナスがあるからプラスが生まれるわけだし、陰があるから光が美しく見えるのである。不満がなくなり、全てのことに満足したら何もしなくなってしまうだろうなといつも思う。

だから、逆に不満や不調をなるべくたくさん、自分の心や体が崩壊しないギリギリのラインで保持しておきたい。眼鏡やコンタクトをつけるストレスでさえも、私の仕事の活力になり得るのだ。

 

ベタなことこのうえない表現であることを承知で言わせていただくと、まさに「目からウロコ」な衝撃であった。

これまで(特に最近)、自分がむやみに苦しみながらも憑かれたように表現をやめられなかったのはこういうことだったのかと。

見ず知らず(?)の星野源に自分の心情も行動も見透かされ、それを裏付けられたような気持ちになった。

 

わたしが猛烈に書きたくなるのは、ネガティブな感情に支配されている時が圧倒的に多い。

かれこれ12年ほど日記をつけているのだが、それもまた負の感情による文章が明らかに多い。

というのも、多分「忘れたくない」以上に「吐き出したい」っていう思いの方が強いからなんだろうなあと思う。

 

わたしにとって「書くこと」は、ぐるぐる渦巻く自分の感情を吐き出して整理して、とりあえずスッキリさせるという目的が一番なのだと思う。

もちろん書いたものは人に読んでもらいたいし、あわよくば評価だってされたい。でもそこまで気持ちが及ぶ前に、まずは「外に出したい」が大前提にあるのだ。

 

しかし不思議なことに、冷静になったあとでも刺さるのは、そうやって身を削るみたいにして紡いだ文章なのである。わたしはよく自分の文章を読み返すのだが、そんなときに無我夢中で吐き出した言葉に励まされたことが何度もある。

逆に、(精神が)元気な時に書いた文章は、なんとなくうすっぺらく上辺だけを撫でているように感じることが多いような気がするのだ。

(まあそこは自分の能力の問題もありますが。いつだって満足のいくものを書けるようになりたい)

 

少し話がそれてしまったが、そういうわけで星野源にまんまと触発されてパソコンを立ち上げ、今に至る。

まじめな部分だけを抜粋したけれど、それ以上に「ばか」と「くだらない」に満ちていて読みやすいエッセイだった。何度も「ふふ。」と笑ってしまった。

 

そんなこんなで、今日という日が終わろうとしている。

明日には喉の痛みも体の怠さも消え去って、ぐーーーんと元気になっていないかな。なっていたらいいな。

 

人間の生活はまったく面倒で滑稽で、複雑なようでいて笑っちゃうくらいシンプルなものである。

失恋したってお腹は空くし、『ある人気ロックバンドのギタリストが三万人の観客の前で素晴らしい演奏をしたその十時間前、彼は自宅のトイレで便器の黄ばみが取れなくて悩んでいたかもしれない』し、風邪をひいて熱っぽくたって、頭と体はやりたいことへと全力で向かう。

かっこわるくて楽しくて厄介で、でもそうやって日々は進んでいく。

 

そして、生活はつづくのだ。

 

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ものすごく暗くて、ありえないほど重い


食器洗いをしていると、手が滑って器を落としてしまった。

音を立ててシンクに落ちたそれを慌てて確認するも割れていなかったのでほっとして、
次の器を手に取ると、ふちのところが欠けていた。


自慢じゃないが、この部屋で暮らし始めてから2年以上、わたしは一度も食器を壊したことがなかった。

 

それなのに。

シンクに落ちたそのちっぽけなかけらを拾い上げることが、わたしにはどうしてもできなかった。

 


「空腹は感じるのに口が何も欲していない」

という、年に一度も起こることのない信じがたいスーパービッグイベントが自分の身に巻き起こっているのを認めると、

「ああ、こりゃだめだ」とわたしは思った。


結構来るとこまで来たんだなと思った。

 


正解のないループから何時間もぐるぐると抜け出せないままでいて、

絶望のふちに引っかかったまま、夜も更けた頃お母さんに電話をかけた。


出ないだろうなと思っていたら、やっぱり出なかった。
すごくすごく眠たいのに、頭の真ん中がしんしんと冴えているから眠ることもできず、


でもわたしには、

部屋中に散らばった本をでたらめに拾い読みしたり

web上にあがっている人たちの文章を読んだり、

思いつくことをだらだらと書き殴ったりすることしかできなかった。

 

自分で自分の首を絞めて
悲劇ぶったことで大げさに打ちのめされて

助長するようなことばっかりしている自分は本当にばかなのかもしれないとぼんやり思った。

 

窓の外では夜が明けていた。

絶妙なタイミングで連絡をくれた人の言葉に救われ、少しずつ這い上がりかけていた頃、


お母さんから電話がかかってきた。

 


どしたんー、あんな時間に、と言う。


もうだめだー、と思ってしまう。
でもそう思うことすら甘えだとわかっていて、
こんなふうに愚痴をこぼしていい域になんて全然達していないこともわかっているから情けなくて、

ももうだめだー。しんどい。


ということをぼろぼろと話す。

 

話しながらも、なんて甘えているんだろうと吐きそうな自己嫌悪に襲われた。

と思いつつ、大したことないくせにそうやって大げさに落ち込んでみせてばっかりいて何それがんばってるアピールかよって自分自身に鼻白む。


先回りの先回りくらいまで俯瞰して先手を打ってしまうくせがやめられない。

誰に批判されるのを怖がってるんだって。
およそ潔さとか覚悟というものがなさすぎる。


と書いていて、今はたと思ったのは。

多分先手を打って言い訳してしまったり、自分はちゃんとだめなことにも気づいてますよってアピールしてしまうのは、
何よりも自分自身への言い訳なのかもしれないっていうこと。

全部頭の中だけで起こってることに過ぎないのにね。どんだけ自意識過剰なんだ。

自己完結。そんなんだからいつまで経っても外の世界に出て行けないんだ。

 


帰っといでー、と母は言う。


「帰ってもいい?」って送ってきてたけど、
なんでそんなこと聞くの。

ここはあなたの家なんやから、いつでも帰ってきていいに決まってるやんか。


と、叱るような口調で母は続ける。

 

帰ろう、と思った。

家に帰って、お母さんのごはんが食べたかった。

 

ゼラチン質の絶望と湿気をたっぷりと含んだ部屋の空気は意味不明なくらいに重苦しくて、
いつ飲み込まれてもおかしくないような有様になっていた。


ちょっと一旦ここから逃げよう、と思ったのだ。

 

休んだことのなかったアルバイト先に欠勤の連絡を入れ、明後日からの旅行の準備をリュックに詰めるとわたしはバスに乗って駅へと向かった。


お母さんのお好み焼きか、
お母さんの餃子が食べたいと思った。

 


自分の中にある言葉の重みに時々押しつぶされそうになる。


言葉は凶器だし、きっとそれ以上に狂気だ。

そしてその矛先は、他人のみならず自分へも向かうから恐ろしい。


外に出してやらないと、多分わたしは窒息死するんだろうなと思う。

 

創作は麻薬なんだって。

中毒者みたいに、憑かれたようにやり続けるより他にない。

 


ふちが欠けた器を、しかしわたしは捨てずに使い続けるんだろうなとぼんやり思った。


たった一箇所が傷ついたくらいでもうだめだと見切ってしまうのは、あまりにもったいないことのように思えたのだ。

 

春過ぎて

 

自転車を漕いでいてしたたるほどの汗をかいたのは、
今年に入って今日がはじめてだったように思う。


そこらじゅうに、夏のはじまりが満ちている。

 


ひとつの足掻きを終えることができた。


最近うわあっと書いていたものを 無事〆切に間に合わせることができたので、

郵便局の人に「お願いします」と手渡すと
暑いおもてに出て、大きく息をついた。

 

思っていたほどの達成感はなかった。


もっと直せたんじゃないか

もっと磨けたんじゃないか


そんなふうに思ってしまう。

 

評価されたい 結果が欲しくて吐きそう。

でも そんなじょうずに物事は運びません、
もっともっと足掻いて闇雲にやってから言え

と、甘い自分に喝を入れる。

 


ともあれ ひとつの区切りとして、
ちょこっとだけ自分へのご褒美をあげよう。


髪の色を変えてメイクを変えて、気分がいい。

今日は、久しぶりに
カフェの新規開拓をすることに決めた。


ずっと行ってみたかった町家カフェに向かう。

 

坂道だなんて聞いてない。

緩やかな長い坂道がどこまでも続く。


むわりとした湿気を沢山ふくんだ空気と

照りつけるほどではないといえ
容赦なく覆いかぶさって来る白い日射し。


暑い。

汗が流れる。

自転車を漕ぐ。

降りて手で押そうかと思う。

でもなんだか願掛けするような気持ちになって、

あごの下まで流れる汗もそのままに
一生けんめい自転車を漕いだ。

 

坂道のてっぺんに着くと、自転車屋さんが目に入った。

すみません、空気入れお借りしていいですかと店の奥に声をかけると、

自転車屋さんのお兄さんが、気持ちよく「やりますよー」と言って
わたしの自転車に空気を入れてくれた。


強面と思ってごめんなさい、
すごく嬉しかったです。

 

おかしいなあ この辺のはずやけど、と

いつもの相棒(Googleマップ)を片手に
いつものごとく しばらく周辺をうろうろしていると、


あった。

 

心地よい空間にはゆるやかな時間が流れている。

ああ来てよかった 坂道がんばってよかった、と思う。

 

朝からフレンチトーストしか食べていなかったので
なにか食事にしようと思ったのだけれど、

やっぱり我慢できなくてパンケーキにした。


久しぶりのパンケーキ新規開拓。
わくわくする。


ほどなくして運ばれてきた。
おおきなパンケーキが、4枚もお皿に乗っかっている。


思うさま、ほおばる。

咀嚼する。

ああ、しあわせだと思う。

 

生クリームの甘さが脳みその真ん中へんに届いた瞬間、
ふいに涙が出そうになったのでびっくりした。


なんだか、凝り固まっていた部分がほどけたような感じがしたのだった。


がんばったね

と、ちょっとだけ自分を褒めてあげた。
今だけちょっと甘やかしてあげる。

 


そういえば、ブログを始めるきっかけができたのも

パンケーキを食べている時だったなあと思い出した。


素敵な空間でおいしいおいしいパンケーキを食べているうち どんどん文章が浮かんできて、

書きたくて仕方なくなったので慌ててメモをとり、その記録として

そうだ、ブログやろう。

と、始めたのだった。

 

 

今日だってそう。

泣きながら書き上げた、その直後にも
やっぱりやりたいことは書くことで、

何をしていても次々と文章が浮かんでくる。

 


誰にも頼まれていないのに。

なんの役にも立ちやしないのに。

自己満足に過ぎないのに。


残念ながら、
そんなことは書かない理由にはならなくて。


ああ わたしは本当に書くのが好きだー、と
痛いくらいに強く思う。

 

せいぜい不恰好に足掻いてみるから、
どうかお願いだから、どこかの誰かに届きますように。


言葉で心を動かせますように。


本を書く人にわたしはなりたい。

 


みんなと違うことをするのは、多分しんどい。


でもやりたいことやるならきっと、
それくらいの覚悟はいるんだな

 

楽だとか「みんなと一緒」とかじゃなくて、

しんどくても自分がやってて楽しいと思える方を
わたしは迷わず選び続けたい。

 

って言ってますよ。

ちゃんとがんばれよ わたし。

 


そんな話。


最後まで読んでくださって
ほんとにありがとうございました。

 

 食べる ということ - わたしらしさに彩りを。

 

大切な人たちのこと 2

 

 

今年度に入ってから、一人で過ごす時間が圧倒的に多くなった。

 

高校生までは家族と一緒に暮らしていたし、

毎日学校に行くから絶対クラスメイトや部活の友達と話すし、

誰とも会わずに過ごす日なんて、思えば一日もなかったんじゃないかと思う。

 

大学生になって、一人暮らしを始めた。

それでも一、二回生の頃はだいたい毎日授業やサークルがあって、

そのほとんどは友達と一緒だったから、

やっぱり誰とも会わずに過ごすことはほとんどなかった。

 

 

しかし、大学三回生になって。

 

転学科をした。

これまでみたいに友達とわいわい受けられる授業は皆無になり、

ほぼ一、二回生ばかりの中で、一人で受講することが多くなった。

授業数が減り、学校に行く日も少なくなった。

自分の中身のことでいっぱいいっぱいになってしまうのでサークルに顔を出すことも減った。

気が付けば、誰とも会わず、誰とも話さずに一日を終えることもあるのだった。

 

 

一人でいるのはわりと性に合っているし、好きだ。

本を読んだり文章を書いたり、一人遊びが好きだから、

結構長いこと退屈せずに過ごしていられる。

 

でも、それと寸分たがわぬ強さで、わたしは寂しがりなのだった。

 

そんなことないと言ってもらえることもあるけれど

わたしは人と接するのがあまりじょうずではないと思っていて、

だからあまり慣れない人と話した後なんかは特に、

激しい自己嫌悪に襲われることもしばしばである。

 

そんなふうになるくらいなら一人でいる方が楽だし、

誰にも嫌な思いをさせずに済む。

そう思ってしまうから、ますます一人でいるようになっていた。

 

 

でも。

 

一人に慣れてしまったから、ちょっと億劫だなあと思いながら

それでも重たい腰を上げ、

逢おうと言ってくれる大切な人たちに逢いに行くと。

 

 

ふわあっと世界が広く見える。

 

大げさなようで、本当である。

普段いかに狭い視野で生きていたのか、そのたび思い知らされる。

 

 

「実は根がネガティブ選手権」なんてものがあれば

少なくとも京都府代表くらいまではいけるんじゃないかと思っているわたしの

そのネガティブな部分は、だいたいが一人でいるときに構築されるものである。

 

そう、わかってるんやけど。

わかってるくせにいじいじ考えてばっかいるから

ますます加速するんやって知ってるんやけど。

 

 

 

大切な人たちへ。

 

(もう自分の一部に近いのでこれだけで一記事書きたい)aikoや、

そのaikoのおかげで出逢えた人たち。

 

うまく言葉にできない部分まで汲み取ってくれる、

こんなにたくさんの人がいる中でよく出逢えたねって思う人たち。

 

 

いろんな人がいて、似てるようでみんな考え方が違ってて、

それぞれ楽しそうだったり苦しそうだったりするけど、でも、

みんなすごくがんばって生きてるんやなあって思う。

 

逢うたびに思う。

話すたびに思う。

わたしの周りには、というかわたしの好きな人たちには、

漫然と今を消化して生きてる人なんて一人もいない。

 

だから、すごく好きです。

出逢うべくして出逢った人たちだなあと思う。

心底そう思う。

 

いつもいつも励まされる。

ああ わたしももっとがんばろうと思う。

 

昨日もありがとう。

今日もありがとう。

 

わたしも誰かにとってのそんな人になれますように。

どうか、なれていますように。

 

 

やっぱり外に出てよかった。

と、思うのでした。

 

 

 

 

笑うのが苦手な人

人ごみが苦手な人

会社が苦手な人

学校が苦手な人

君だけじゃないよ。

明日もいい日になりますように。

  

by  aiko ANN

 

yukanon15.hatenablog.jp

 

 

京都みたいな女に生まれたかった

 

 

京都は、あざとい女だと思う。

 

 

気まぐれで自己中で、自由奔放で。

 

「風薫る五月?そんなの知らない!」とでも言わんばかりに

容赦なく日差しを照りつける。

 

人々の気力と体力をことごとく奪い、

真夏日の連続で辟易させながらあわただしく皐月を終えたかと思えば

 

息つく間もなく、

長袖でないと耐えられないような冷え込みで我々を翻弄しやがる。

もう六月、暦のうえでは立派な夏だっていうのに。

 

 

とはいえ、まあ暑くない方がやはり過ごしやすい。

肌寒ささえ感じる空気をありがたく甘受していると、

 

またもそんな我々をあざ笑うかのように、気温は突然の30℃超え。

 

むっとした熱気がアスファルトから立ち上ってはそこらじゅうにたちこめる。

 

てっぺんからは、これでもかと刺すような日差しが降り注ぐ。

 

 

もう、いい加減にしてくれ。

 

 

冬は冬で、冷凍庫の底みたいに冷え固まり、身を切るように寒いのだ。

 

 

京都嫌いになってやるぞ、と思う。きっと誰もが思う。

 

 

 

 

でも、

 

彼女は美しい。

 

 

そして、信じられないくらいの魅力を内包しているのだ。

 

 

 

どうしたって人々は、どうかひとめ見たいと思ってしまう。

 

できることなら触れて、感じて、味わいたいと切望する。

 

 

 

 

歴史を携え文化に精通し、知的な一面で魅せたかと思えば

 

最先端の流行にも敏感で、それをまたこれみよがしでなく

あたかも「わたしが発信地ですけれど」

とでも言わんばかりの自然さで身にまとう。

 

食に関してはなんでもござれ。

見つからないものなんてきっとない。

 

 

老若男女、さらには国籍すら問わず、

誰もを魅了して捉えて離さない。

 

 

京都を訪れた者はみな、口をそろえて自慢する。

 

「いいところだった」「行ってよかった」とほめそやす。

 

 

住民もまた然り。

 

それはそうであろう。世界的に名の知れたところに居を構え、

いちばん近くで魅力を享受できるのだから無理もない。

 

 

 

 

 

あざとい。

 

まったくもって、あざといのである。

 

 

 

これでもかと溢れんばかりのポテンシャル。

 

それを、決してわざとらしくなくあくまでも上品に、

したたかな計算高さをもってして振りまくところ。

 

 

媚びず尽くさず、奔放にふるまいつつも、

来るもの拒まずでみなを寛容に受け入れるところ。

 

 

けちをつけようものなら、

その堂々たる人気と否定しようのない実力で跳ね返してくるところ。

 

 

 

そして、

 

それらをわかっていてもなお、好きにさせずにはいられないところ。

 

 

わたしたちは、彼女に構わずにはいられないのだ。

 

あまりに多彩な魅力はときに妬ましくもなるけれど、

やっぱり気を惹きたくて、あわよくば受け入れてもらいたくて。

 

 

 

 

 

 

まったく恐ろしい女である。

 

 

 

 

わたしは、京都みたいな女に生まれたかった。

 

 

 

 

 

味覚障害になったら

 


味覚障害になったら、


わたしは、ぬけがらみたいになってしまうかもしれないと思った。

 

もとより、腹を満たすことの何倍も
舌で味わうことに重きを置いていて、

それゆえ、たいして大食いでもないくせに
人一倍食い意地が張っているわたし。

 


夏バテや風邪で食欲がない。


それはわかる。


しかしながらわたしの場合、

それは必ずしも「= だから食べない」には繋がらないのだ。

 


全然お腹すかないなあ…。

けど口がさみしい。なんか食べたい。

 

で、とりあえず何かしらを味わう。

(だから体調を崩したところで体重が減ることは滅多にない)

 

 


甘味も塩味も酸味も苦味もうま味も
なにもかもわからなくなってしまったらどうしよう。

 

大好きなチョコレートの味も、
ポテトチップスの人工的な塩っ気も、
きゅうっと顔が縮むようなレモンのすっぱさも、
あんまり好きじゃないピーマンの苦みも、
ほっと体がゆるむようなお出汁の味も、

 

ああ、たった一つでも欠けてほしくない。


日本に四季があるように、
味覚にもぜひとも彩りがあってほしい。

 


味をなくしたわたしの世界は色を忘れて、
きっとよそよそしくモノクロになる。

 


それほどに深刻な問題なのだ。

味わえる、って素晴らしい。

 

 


酷い鼻づまりのせいで
食べ物の味がよくわからなくってつらい現状。


もしも…って考えたらぞっとした話でした。

 

いつかのわたしへ

 

毎日を、ちょっとだけ泣きたいような気持ちで過ごしていた。

 

というのは少し嘘で、


毎日を、ちょっとずつ泣きながら過ごしていた。

 


将来への、漠然とした不安。


自分の将来なんて自分自身でつくっていくより他になくて、

誰のせいにもできないし、
なんの保証もないんだってこと

 

私立の大学に通わせてもらっているなんて、本当に贅沢な話なのに。

あんなに焦がれて憧れて、希望に満ちあふれて入学したはずだったのに。

 


わたしは一体なにがしたかったのか、

一体なにができるっていうんだって。

 


やりたいことなんて、
何一つないような気がしてきてしまって


本当にこれで良かったのか。

なにが正しくて
なにが間違っているのかもわからない。

 


でも、ここまできてしまったら、卒業後の選択肢は大きく分けてふたつしかない。

 

就職するか。

就職しないか。

 

どっちかを選んだあと、その中で何をするかはまたいろいろあるわけだけど、
まずはどっちかに決めなくちゃならない。

 


わたしは、就職する方を選ぶ。


ともかく、当面の生活は保証される。

安定を蹴ってまでやりたいことも
やれる自信も全くないから、

とりあえずは生活の安定を選ぶ。

 

 

、で?

 

と、なるわけだ。

 


生きていくためには働かなくちゃならない。

食べていくには、日々を送るには、
働かなくちゃならない。

遊びたければ、楽しいことがしたければ、
働かなくちゃいけないのだ。

 


そんなこと頭では十分理解している、けど、


しんどい思いをして就活して、就職をして、

でも多分わたしは「これがしたい!!」という仕事があるわけでもなくて、

しんどいなあと思いながら働いて、

たまに楽しいことをして、

そういうのを延々くり返して生きていくのかと思うと、とても自然な感じで軽く絶望した。

 

 

人生ってそういうものなんだなあって
いまさらすごく思った。当たり前なのに。

 

みんなそうやって生きてるのに。

そういうもんやって割り切ってるのに。

ちゃんと大人やってるのに。

 


わたしはいつまで子供みたいなことで悩んでるんやろう。

いかにも大学生って感じの悩みですか。

 

 


生きてて良かった!って瞬間とか

いま人生楽しいなあって思うときとか、

いっぱいあって、
いっぱい楽しいことをしてて、


してるくせに、

 

でもその楽しさって一時的なもので、

根本的な不安は何一つ拭えないし、
馬鹿みたいな悩みごとは何一つ解決できないから、


ふと我に返った瞬間に、何度だってまた絶望する。

ああ一生こういうののくり返しなんかなあって

 

 

いつになったら自分に満足するんやろう。


たとえすきな人と結ばれても、

もしもやりたいことで名を馳せることができたとしても、


そんな日一生来ないのかもしれないな、って
妙に醒めた頭で思う。

 

 

 

趣味みたいに悩むやん。

というか、もはや特技かもしれない。


「特技は悩むことです」

誰が友達になってくれんねん。嫌やわそんなん。

 

 

 

なにかをめちゃくちゃがんばりたくて、
いろいろ手を出してみるもののいつも自分に負けてがんばりきれなくて中途半端で、

じゃあいっそ全部投げ出してなにもしなくても許される現状を甘受すればいいものを、それができるほどの潔さもなくて、


がんばってる人を見れば見るほど苦しくなって、でも目を逸らしてしまう勇気もなくて。

 

もう全部情けないし、自分の性格で自分の首絞め続けてるやろってわかってる。


全部甘えやし言い訳やってわかってる、
変わりたいなら変わればいいのに、変わろうとしてないのは他ならぬ自分なんだってわかってる、

けど変えられなくて。

 


苦しいーーー。

しんどいよー。


いつまでも終わらない自己嫌悪に目眩すら覚える。

 

 


去年の秋頃にも同じようなことがあった。


我ながらきしょいわって思いながら毎日泣いて思いつめて、
うわもうどうしようわたし、みたいな。

 

でも、それは人に話すべきではないと思っていた。

自分で考えて、自分一人で解決しなくちゃいけないのだとなぜか思い込んでいて、

来る日も来る日も答えの出ないことを考え続けていた。

 


まあ、こんだけ頭の固い人間がそれでうまく収められるわけもなく


耐えかねて全部吐き出した、ある日。


そしたら嘘みたいにすーーーっと軽くなって

そこからスムーズに心が動き始めたことがあった。

 


そこでわたしは学んだ。


人に話せばええんや、と。

 

 


というわけでそのときの教訓を活かし、

わたしはこの馬鹿らしくて切実な悩みを人に話してみた。

 

偶然のタイミングってなんかすごいもので

ここ二週間くらい、わたしをよく知ってくれている人たちと会う機会が続けてあったから。

 

 

話したところで

「ハイ解決!」

とは勿論ならなかったけど、


自分ですらばかみたいやって思ってるのにばかにするどころか理解しようとしてくれるし
この上なくめんどくさいことを言ってるのに真剣にちゃんと聞いてくれるし

悩むのをやめなくていいと思うって言ってもらったりとかこのままの自分を認めてもらったりとか、

 

 

あーーーーー

がんばろ。って思った。

 

 

悶々とした今の心情をぶちまけたわたしを、

「若いなあ」とでも言いたげな
微笑ましげな表情で見てる両親を見て


「あんなに悩んで若かったなあ」

って、強がりでなく心底思えるような

いまの自分を心底笑えるような、

 


少なくとも今のところは、
そんな日に向けて生きていこうと思った。

 

 

 

 

どんだけ悩んでも人生は進む。

そして人生は続くんだって。

 

 

いつかのわたしへ。