運命
外に一人でいるとき、無意識に頭の中で文章を組み立てる癖があることに気がついた。
たぶんすごく変だと思う。
目に映る景色、感じたこと、見えるはずのない自分の歩く姿なんか。
考えて組み立てて、その場限りで消えてゆくものを作り続けている。
もう一つ。
わたしが猛烈に文章を書きたくなるのは、自分の中の強い感情にふれたときだということも、今日はじめて知った。
怒りでも喜びでも興奮でも絶望でも、何かしらの感情が極度に高まったとき、それを形にしたい、しなければという衝動に駆られる。いまこの瞬間の気持ちにはもう二度と帰って来られない、と思うのだ。
きっと明日には忘れてしまうだろう。こんなにも激しく思うことがあるのに、それがなかったことになってしまうのはすごく嫌だ。
生きた証なんて言葉をつかうと仰々しいし恥ずかしいけれど、大げさに言えばそういうことなのだと思う。
感情の軌跡は、わたしが今日を、いまこの瞬間を生きた証拠だ。
方法はいくらでもあるんだろうけど、わたしは言葉で残したい。
何年もそうして積み上げてきた自分の言葉に、救われる瞬間がたまにある。
そうやって、いつまでも自己完結でいるんだろうか。
「無名のままで、生きるのか。」っていう宣伝会議のキャッチコピー、めっちゃいいやんな。ぐさっとくる。
無名のままで、生きるのか。
あとから読み返したら死ぬほど恥ずかしそう。
今日おもったこと。
ああ、思い切り生きた。
毎日そう思えるように生きていきたい。
うしなう、はじまる
最近読んだ本たち。
「かわいそうだね?」 綿矢りさ
「君がいない夜のごはん」 穂村弘
「世界から猫が消えたなら」 川村元気
「眠れる美女」 川端康成
普段読まない作家を意識して適当に借りてみたのだけれど、わりとどれもおもしろかったので嬉しかった。
特に「君がいない夜のごはん」はめっちゃくちゃおもしろかったです。わたしがいちばん好きなジャンル、" 食べ物エッセイ " の極み。
歌人である作者が、料理雑誌に連載していた文章をまとめた本らしい。
リズミカルな文体に、思わずにやりとしてしまう表現、登場するたべものたちが鮮やかに浮かんでくるような描写がすごく好き。
とっても読みやすいのでオススメします! 手元に置いて、毎日寝る前とかに読みたい本。
映画プロデューサーの川村元気さんが初めて書いた本だそう。
同名の映画の原作です。
話も良かったけれど、主人公の母親がよく口にしていた言葉が特に印象に残っている。
" 何かを得るためには、何かを失わなくちゃね "
ほんとうにそうだと思った。
少数の器用な人を除けば、対価なしに欲しいものを手に入れるのはとても難しい。
失ってまで、欲しいもの。
失うことで、手に入るもの。
たとえば、
個性を体現化したら万人受けはできないだろうし、
恋人同士になりたければ、居心地の良い関係を捨てることになるかもしれない。
お金を稼ぐには自分の時間と労力を売らないといけないし、夢を追いかければ安定は遠のいてゆくかもしれない。
でも。
それでも、手に入れたいものがあるのなら。
と、考えさせられた。
一見当たり前のことみたいだけど、その基準は多分人によって全く違う。
得るために失うものって。
欲しいからこそ手放すものって。
ぜんぜん関係のない話だが、小学校で「失」という漢字を習った時に、父と交わした会話をふと思い出した。
小4のわたし 『「失」って、「矢」とほとんど一緒やのになんでこんなに習うの遅いん? 「矢」は一年生で習うのに』
父 『一年生に「失う」の意味がわかるか? 漢字の簡単さだけで決まるんじゃないんやで」
なるほど。確かに一年生にはわからへん。
うしなう。
そこからはじまる。
いま手元にあって読みかけてるのは、
です。
まだまだ読書の秋を謳歌するぞ。
ことのはのちから
たった一行で、人の心は動く。
「誰かの心を動かす」
「自分の心が動く」
多分そこには、むつかしい言い回しや秀逸な表現なんか必要ないのだ。
本当に大切なものは、目に見えない。
その意味を、今日改めて実感した気がする。
はい。
新海監督の作品が観たくて、借りてきた。
「言の葉の庭」
言の葉 って、綺麗なことばだな。
同じ作品を続けて観たのははじめてだった。
一回めに観た直後は、ここで終わり? って、正直すこし物足りなく感じてしまって。
ドラマ一本分にも満たない長さだったので、そのまま二回めに突入した。
空白が余韻を作り出す。
それはなんだか、「休符を演奏する」ということに似ている気がした。
雨の音や、電車の音。
時に包み込むように、時に突き放すように奏でられる旋律。
鳥や虫の鳴く声に、人間の話し声。
絶えず何かしらの音が流れていて、無音の瞬間の方が断然すくないのに、ふしぎな静けさがたちこめている映画だと思った。
六月。関東が梅雨入りしたあと。
軽やかなピアノの調べに乗せて、画面が次々と切り替わるシーンがすごく好きだった。
料理をしているときや鉛筆を走らせているときの、秋月くんの手元も。
空が怒り狂ったみたいな大雨に閉じ込められて、まるで世界に二人しかいないような場面も。
テーブルにお皿を置いたときの こと、というあたたかな音も。
きれいな余韻を残して終わる。
詰めていた息を、ふっと吐き出したくなるような。
とても好きな映画でした。
" 世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。"
なんだか「耳をすませば」に重なるものがあったな。
ひさしぶりに観ようかな。
思い出すのは。
昼間の暑さが嘘みたいに涼しい風が香る中を、すり抜けるようにして歩いた。
夜ごと秋が深まってゆく。
思い出す、というよりもっと自発的なもの。
考えるより先によみがえるから、その都度はっとさせられてしまう。この季節は特に。
断片的な記憶や景色、空気や温度や手ざわりなんか。うまく表現出来ないけど。
それは決まって高校時代のことだ。
高校3年間の秋と冬。
久しぶりに袖を通した合服の感触とか
河川敷の優しい夕暮れとか
真っ暗でひんやりした学校の廊下とか
ちいさな町のささやかな夜景とか、
つめたい楽器にくちびるを押し当てる瞬間
メトロノームの音が響く教室
何度もくりかえし練習したフレーズ
人いきれと暖房でむっとした舞台裏、
いちばんは、時折香る風の匂い。
住んでいる場所も、歩いている道も、髪型や服装も、考え方だってあの頃とは違う。
挙げ列ねてみれば変わったことの方が断然多いのに、また同じ季節を生きているような錯覚に陥る瞬間があるのだ。
目に見えるものがどんどん変わっていくからこそ、目に見えないものの変わらなさが際立つのかもしれない。
袖を風がすぎるは秋中、そんなことを考えた。
なんて一日。
本を読む ということと、読書日記
本屋さんよりも、図書館が好きかもしれない。好きというか、より近しいもののように感じるのだ。
図書館は、物心ついた頃からごく自然に日常に組み込まれている存在だった。わたしと同じく本好きな母の影響である。
ずらりと並んだ本の背表紙に目を這わせる時間が好きだ。めぼしい本を探しながらわくわくする感じも、目当ての本を見つけた瞬間のよろこびも、棚から抜き取って手にした時の確かな重みも、好きだ。
ぱらぱらと数ページめくってから借りるのを決めることもあるし、表紙やタイトルに惹かれて即決することもある。左腕にどんどん積み重ねながら、制限冊数いっぱいまで借りるのが常である。
わたしが好きな作家の共通点は、感情の機微をこまやかに描くことである、と最近気がついた。
圧倒的に女性作家が多い。繊細で、綺麗な言葉をつかうひとが好きだ。
ただ、そればっかり読んでいるとどうしてもその人の文章に引っ張られてしまうので、近頃は得意でない人のものも読むようにしている。
ここ3.4日で、たくさん本を読んだ。
「月と雷」 角田光代
「静かにしなさい、でないと」 朝比奈あすか
「少女」 湊かなえ
「ひなた」 吉田修一
「もう一度生まれる」 朝井リョウ
「星の王子さま」 サン=テグジュペリ
まったくの主観と好みと偏見で、思うことをすこし書いていきたい。
もしも気分を害されたらごめんなさい。
しかし苦手である。朝井リョウ。
めちゃくちゃ人気だし、読みやすいし話も面白い。なのにどうにもいけすかないのだ、あの文章。
わざとらしく感じてしまう。内容にはすごく共感できるのに、表現がいちいち癇に障る。わたしもなかなかひねくれているが、まあ、合わないのだろうな。
何度目かのチャレンジであったが、やっぱり無理だった。たまらず途中で読むのをやめてしまったほどである。しばらくしたら、また懲りずに読んでみるんだろうけど。
湊かなえの本は中高生の時たまに読んでいたが、手に取ったのは久しぶりである。文章は好みでないが、話がおもしろい。interestingのほうで。
そう来るか、と声に出したくなるようなからくりが、細部にわたって惜しみなく施されている。いつもながら、オチのつけ方は特に圧巻。
個人的には、映像化された時に本領を発揮する気がする。
朝比奈あすか。この人の本をはじめて読んだ時はかなり衝撃を受けた。
知らんふりして生きている醜い感情や、認めたくないような本音をあざやかに描き出す。決してわざとらしくなく、真綿で首を絞めるように、じわじわと。
あまりの生々しさに、思わず目をそらしたくなる。なのに、虫歯をわざと噛み締めるように、痛い痛いと思いながら読んでしまうのである。
好きすぎるあまり、いま一番読みすぎに気を付けている作家が、角田光代である(多分、今も少なからず影響を受けている)。
訥々と語られる日常。そして、その隙間にこぼれ落ちそうな感情をそっとすくい上げるような言葉の選び方がほんとうに好きだ。
些細な出来事が、光を帯びて輝きだす。
語れるほどには数を読んでいないが、吉田修一の本も好きだ。芯があるうえに細部まで丁寧で、力強い。
いちばん大事な部分は、いつも明示されていない気がするのだ。読み切って自分のものにするにはかなりエネルギーがいる。だからこそ、もっと読んでみたい。
幼い頃、よくわからなくて途中で投げ出してしまった「星の王子さま」。
大学生協でも展開されているし、大人になってから読んで良かった、とよく話を聞く作品である。
名作であるがゆえに軽々しく感想を言うのも憚られるのだが、まさしく"大人のための童話"であると感じた。
「本当に大切なものは目に見えない」
20年とすこし生きてきて、大切なものに何度か出逢ったからこそ噛みしめられる言葉であった。
本を読む、ということ。
自分の人生に、新たな物語を取り込むこと。
誰かの人生を、ちょっとだけ生きてみること。
何にも代え難い、至福のひとときである。
至福のバターロール
今日、運命の出逢いをした。
タイトルからお察しだろうが、残念ながら色恋沙汰ではない。そう、バターロールである。
場所は、神戸の「ケーニヒスクローネ くまポチ邸」。
メイン料理にサラダ、パンバイキング、デザートが付いてそのうえドリンクお代わり自由という、夢のようなランチメニューを食べに行ったのである。
10種類以上あるパンの中のひとつ、「もっちりバターロール」。
選んだことに、特に深い理由なんてなかった。強いて言うなら「もっちり」の部分に惹かれた、ということだろうか。わたしは、もっちり、とか もちっと、とか もちもち、という謳い文句にめっぽう弱い。
テーブルにつき、まずサラダ(女子だから)を半分ほど食べたあと、例のバターロールに手を伸ばす。
ひとくち分にちぎろうとしたとき、すでに予感めいたものはあった。まるで指先と視覚から「もっちり」が伝わってくるようなちぎれぐあいだったのである。
はっとした。こいつ只者ではない、と咄嗟に思う。
もどかしいような気持ちで、ほとんど慌ててひとくちほおばる。
頭の中が、まっしろになった。
わたしの知っているバターロールではない。表面がてらてら光っていて中身がぱさぱさの、「バター」とは名ばかりである市販品とは似ても似つかぬ。いや、全くの別物と言っても過言ではない。
「バターロール」の名に恥じないバターロール。こんなの生まれてはじめてである。
口に入れた瞬間から、バターの芳醇な香りがこれでもかと広がってゆく。先ほどから薄々感づいていた「もっちり」食感が、ここぞとばかりに主張する。ひとくちめにして、バターロールの概念を完全に超えていた。
今でこそこんな風に言葉をこねくり回せるが、この時わたしは、大げさでなく一言も発することができなかった。
さらにいうと、目を開けていることもできなかった。それほどに衝撃だったのである。
当たり前だが、ケーニヒスクローネはバターロール屋さんではない。かの織田信成も宿泊したという、格式高いホテルのお店である。
勿論、メインのビーフシチューも、パンオショコラもチーズのパンもクロワッサンも、とても美味しかったことを書き添えておく。写真も貼っておく。
しかしながら、それらが霞むほどのバターロール(それどころではなかったので写真はない)。
恐るべしである。生まれてきてくれて、ありがとう。
○ 補足
今日たべたパンの数 : 7こ
ごちそうさまでした。
ほんで、市販のバターロールも大好きです。
良質なものを身に付けたい ということ
最近、切実に思うことがある。
自己投資にお金をかけたい、とりわけ、良質なものを身に付けたい、ということである。
デザインや流行、それと安さ。これまではだいたいそんな基準で身に付けるものを選んできた。洋服然り、アクセサリー然り、化粧品もまた然り。
けれども大学生になって一年半、最近ようやっと気づいたのである。
値段は飾りじゃない、高いものにはちゃんとそれなりの価値があるのだと。
たとえば洋服。これまでは欲しいものがあると、似たデザインのより安いものを探して購入することが多かった。
一概には言えないが、しかしそうして手に入れたものはたいていすぐダメになる。
家に帰ってよくよく見ると糸がほつれていたり、数回洗濯すると襟ぐりが伸びてきたり(これはわたしのせいかもしれないが…)、すぐに生地が薄くなってしまったり。
数ヶ月前、友人に連れられて行ったのをきっかけに、たびたび藤井大丸に足を踏み入れるようになった。白状してしまうと、わたしが普段着ているものより、ワンランクないしツーランクほど価格帯が上のブランドばかりである。
良質なものは素材からして違うのだと、ハタチのわたしは目の覚める思いがした。勿論常識的な知識は持ち合わせていたが、肌でそれを実感したのである。
なんだこの手触りの良さは。なんだこのしっかりした縫製は。「わー、かわいい」なんて店員さんに相づちを打ちながら、内心それどころではなかった。
わたしもこんなものを身に付けたい。その想いは日増しに大きくなるばかりである。
あくまでも今のわたしにとって重要なのは、他者の目線ではない。ただ「このブランドの服を着ている自分」を買いたいのだ。
良いものを着ている、という自信。それが自身のモチベーションに繋がるのなら、自己満足万歳である。
実は昨日、わたしの憧れリストに入っているお店で、はじめてお買い物をした。
決してめちゃくちゃに高いわけではない。むしろ普段使いしている子も多いようなブランドであるが、それでもわたしはとても嬉しかった。
明日はそれを着ておでかけする予定。今からわくわくしている始末である。
けど、しあわせってこんなもん。