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あたしの向こう

言葉で心を動かしたい 女子大生のブログです

言葉の森を歩く

 

作家の宮下奈都さんとピアニストの金子三勇士さん、
調律師の中谷哲也さんによる、トーク&コンサートに行ってきました。


その名も『「羊と鋼の森」を歩く』。

ご存知の方も多いかと思いますが、
羊と鋼の森」は、2016年本屋大賞を受賞した小説です。


講演会みたいな堅苦しい形式ではまったくなく
調律師が主人公である小説の世界にぴったりで、
とっても素敵なコンサートでした。


宮下さんのトークステージに始まり
金子さんのコンサートステージ、

休憩を挟み、トークを交えながらのピアノ演奏に続いて
中谷さんがステージ上で実際の調律を行うところを見せてくださり、

最後は金子さんから宮下さんへのプレゼント演奏でしめくくる、という

ものすごく盛りだくさんな内容でした。

 

宮下さんのお話で特に印象的だったのが、
羊と鋼の森」が誕生したときのエピソード。


一年間北海道で生活されていたことがあるそうなんですが、

そのとき目にした言葉にできないような美しい景色と
言葉では言い表せない音楽というものが結びつくのではないか、

というところから始まったそうです。


「小説と音楽は切り離せない」

「小説とピアノの親和性がすごく高い」


そう話す宮下さんは、小説に行き詰まるとピアノを弾くそうです。

すると、うそみたいに筆が進むようになるのだとか。


「漫画と音楽はひとつ」

何年もそう言い続けている人の言葉が、ふっとよみがえりました。

「読む」ものである小説や漫画だけれど、
音楽とは切っても切り離せないと、わたし自身もそう思います。


文字、なのに聴こえる。
絵、なのに感じる。

なんて、ふしぎなことですが。

だからこそ難しいし、だからこそ伝わったときの喜びは並大抵のものではないのだと思う。

 


コンサートステージは、わたしたちにもなじみの深い
いわゆる名曲をメインとした選曲でした。

久しぶりに生で聴くプロのピアノ演奏。

 

衝撃でした。

ピアノの音はこんなにも繊細で、
こんなにも豊かに響くものだったのか、と。


朗々と歌うように

ささやくように

語りかけるように

乱暴までに荒々しく

ときに空気をふるわせることすらためらうような優しさで、

ときにびりびりと空気をやぶるような情熱を持ってして。


ここまでして、いったいこの人はなにを伝えようとしているんだろう。

この曲を通してなにを表現して、なにを届けようとしてるんだろう。


曲を演奏し終えることは、一つの作品を仕上げることに似ていると思いました。

ケーキをつくるとか。小説をかくとか。
創作と名のつくすべてに通じるものなのではないだろうか、と。

 

わたしが心を動かされるのは言葉だけではなかった。
音楽が、とても好きなのだった。


想いを伝える手段としての音楽

なんて、胸を張れるほどの技量を持ちあわせているわけではないけれど、
それでも、演奏することの快感や喜びが忘れられなくて。

自分たちの音楽が、誰かに届いた実感を強く得られることがこの上なく嬉しかったから、
ずっとずっと続けてきたのです。

けっして惰性で13年間もやってきたわけではなかったのだ、ということを
激しく思い出しました。

 

心を動かされると、涙が出るのはどうしてか。

感動すると泣くもの、ということを知らなくてもそうなるんだろうか。
こらえきれないこの想いは、なぜ涙になって現れるのか。

そう思いながら、心が震えているのを強く感じていました。


なんか苦しい、と思ってはじめて、息をしていなかったことに気がつきました。

演奏を聴いて、息をすることすら忘れていました。

体温があがり、心臓がどくどくと脈を打ち、
顔が熱くなるのを止められなかった。


演奏自体の素晴らしさはもとより、
もしかしたらそれ以上に、金子さんが演奏している姿に
心を揺さぶられたかもしれない。


魂の一部すら込められてるんじゃなかろうか、
と思わせるほどの熱量で、

髪を振り乱し、渾身の力を込めて鍵盤を叩くその姿に。


超絶技巧の演奏や素晴らしい小説、
宝石みたいにきれいなケーキだって、

わたしと同じ人間の手でつくられたものなのだ
という
当たり前の事実に打ちのめされました。


(例えがケーキと音楽と小説ばっかりやないかってそろそろ思いますよね。それがわたしのだいたい全てです)

 


調律師さんと司会の方も交えてお話されているときに。

ステージにいる全員が、
けっしていやな感じではなく、美しく自信に満ちあふれているのが見てとれました。


三者三様のお仕事ではあるけれど、

それぞれが自分の仕事に誇りを持っていて
かつ実力も兼ね備えている方たちだから、
共通したオーラを感じたのだと思います。


素直に、すごいなあと思いました。

好きなことを仕事にできるのもすごいし、
なによりも、ずっと同じことに情熱を傾けられることがすごい。

わたしにとっては途方もなく長い時間をかけてずっと同じことに向き合い、
それで生計をたて、
かつ今でも「楽しい」とさわやかに笑えるなんて。


わたしもずっと「好きなことを仕事にしたい」と思い続けていたけれど、

最近は、好きだからこそ
「やらなきゃいけない」になるのがこわい。

それを超えて「楽しい」と胸を張れることを、
とてもまぶしく感じました。

 

コンサートが終わったあと、

本を買って、宮下さんにサインをしてもらうため列に並びました。


作家さんと直接お話するなんてはじめてだし、こんな機会きっとめったにない。

そう思うとどきどきして、何を聞こうか必死で頭をめぐらせました。

どこかのインタビューにも載ってそうなことじゃなくて、
この際じゃなきゃ聞けないことを聞きたい、という欲がありました。


ついに順番が回ってきました。

本を手渡すと、宮下さんは
「ありがとうございます」と優しく微笑んでくれました。

緊張してなかなか言い出せず、サインを書き終えそうになったころにやっと、
おそるおそる切り出しました。

 

「言葉で人の心を動かすために、
一番大切なことってなんでしょうか」


考えて考えて、でもやっぱりそれが一番わたしの知りたいことでした。


「誠実に、言葉を選ぶことじゃないでしょうか。
自分の心に、嘘をつかずに。」


と。

 

誠実に。自分の心に嘘をつかずに。

そう答えてくれる方の書く文章だから、
きっと多くの人の心が動かされたのだと思いました。


小説を書いているんですか?と聞かれたから
いえ、でも文章を書くのが好きで、と言うと、

「大丈夫、書けますよ」と、
ふわりと笑って言ってくれました。


とても嬉しかった。

 

好きなことをすきなように、と思って書いても

何か感じてほしい、
表現で魅せたい、
すごいと思われたい、

みたいな、書くのも恥ずかしいような欲が、
ほとんど無意識に出てきてしまうことが多い。

だから、
自分の心に誠実に、というのは
シンプルだけどとても難しいな。

 

ていねいに、誠実に心がけてみました。

そのうえで、何かを伝えることができたなら。

 

コンサート中、わたしはとにかく書きたくて仕方なかった。

いま感じるこの想いを早く形にしたい、と
もどかしいほど強く思っていました。


そう感じさせてくれるものに出逢えることって
とてつもなく、しあわせです。

 

わたしはわたしの、森を歩く。

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枯れずに咲いて。

 

ずっと前から、
やろうと決めていたことが二つありました。


それを、最近立て続けに行動に移しました。

 

そのうちの一つが、
文章を書く仕事をすること。

「webライター」というなんかかっこいい名前のもとで、
アルバイトを始めました。

会社のwebコンテンツに掲載する
文章を作成する仕事です。

 

仕事目的の根底にあるものは自分が抱いてきた想いに通じていたけれど、
実際の業務はまったくの別物で。


指定されたテーマに沿って、
まずは莫大な量の情報を収集し、整理する。

そのうえで、パズルのように情報を組み立て、
順序を並び替え、
よりわかりやすい文章にするために何度もなんども推敲を重ねるのは、
想像以上に難しいことでした。


すきなことを、すきなように書いてきた
これまでとはわけが違う。

でも、それがおもしろくって仕方ないです。


いままで全くと言っていいほど関心のなかった分野での執筆。

すべてが勉強やなあと思います。
難しいけど、とても糧になってる気がする。

 

この前、ある方に言っていただいた言葉が
すごく心に残ってて。


「どんなにいいことを書いてても、
読んでもらえなかったら意味がない」


本当に、その通りやと思いました。

読者の目に止まって、なおかつ役立つ記事でないと、
書いている意味がない。

 

これまではわりと、

「いかに綺麗なことばを使いこなせるか」

「秀逸な比喩ができるか」

「単純でも、心に刺さる表現とは」


みたいなことばかりに
重きを置いていたけれど、

もっと技術的なことにも目を向ければ、
もっとたくさんの人に届けることができるのかもしれないな。


その方法については、日々勉強中です。

ほんまに全部が勉強。

 

こんなに頭使うの受験ぶりちゃうかってくらいで
毎日パンクしそうになってるけど、

貴重な経験させてもらってるなあと思う。


おとなの人、ほとんど社会人ばっかりの中で働けて、
仕事のことも社会のことも垣間見えて、
これまでにはない経験ばかりで、

楽しいです。

 

想像よりはるかに大変なお仕事やったけど、

この間さりげなく向けられた

「きれいな文章ですね」

ていう言葉が、すごくすごく嬉しかった。

 

ぜったい今後
もっともっとしんどくなるんやろうけど、

とりあえず今は、目の前のことに必死で食らいついて、
がんばってみたい。

文章を書くことを仕事にできるって、嬉しい。

 


もう一つのことも、
ちょうどバイトをはじめた時期と重なっていて。

その間ずっと気が張りっぱなしで、
情緒不安定みたいになってたんやけど、まあそれも無事終わり。


折れそうな時ほど、
当たり前みたいに支えてくれる人の存在がこの上なく身にしみて、
本当にほんとうにありがたかった。

ぜんぜん当たり前じゃないんやけど。

 

ゆとりがなくて、ささくれた気持ちすら受け止めてくれたり、

しょうもないことで笑わせてくれたり、

他愛もない話を聞いてくれたり。


とるに足らないような愚痴とか

いいお天気やったねー とか

学食のカレーうどんがおいしかってん、とか

今日夢にaikoが出てきた!とか


そんな些細なことをいちいち報告したくなってしまうのは、
わたしにとって、多分すごく大切な人たちです。

いつもありがとうございます。

 


はい、

最近の毎日はそんな感じです。


バイト掛け持ちって、想像以上に大変やね。

大学生みんなこんなことしてたんか、、
っていう驚嘆でいっぱいです。

 

春休みはたくさん働いて、
たのしいことをたくさんしたい。

一生懸命働いて働いて、
稼いだお金を使うのってきもちいいやろな。


物欲は数かぎりない。。

 


もうすぐ三回生になります。


大学生活 残り二分の一。

いままで以上にあっという間なんやろなあ。


今しかできないことって、
きっとまだまだいっぱいある。

どんどん見つけてやっていきたい。

とりあえず今年は海外に行く。

 


明日もいい日になりますように。

おやすみなさい。

 

いつも旅のなか


エッセイが、好きだ。

特に、日々の営みやよしなしごとを、丁寧に淡々と描いたものが好きだ。


そういうものを、寝る前に2〜3編読むのが至福の時である。
しかし今回久しぶりに、そんなもんじゃ読みやめられなくなるエッセイに出逢ってしまった。

図書館で借りてきてから家を出るまでのわずかな時間に読み、夜家で過ごす時間はそれを読むことに費やし、翌朝も起き抜けの頭でむさぼるように読み続け、そのまま読了した。


いつもみたいに、嗜むように自分のペースで楽しむことなんてできなくて、本当に体まるごと巻き込まれ、持っていかれた感覚である。

300ページ超のボリュームをはるかに上回るほどの熱量が、わたしの意思とは関係なく体内を駆け巡る。しばらくの間、余韻に浸ったまま呆けていたい気分。

 

「いつも旅のなか」/ 角田光代

30回以上にも上るという、自身の旅にまつわるエッセイである。
ルポルタージュのような詳細な記録ではなく、どちらかというとその国や地域のなかで、作者が感じたことの描写に重きが置かれている。そしてわたしは、そういう部分に強く惹かれた。


閑散とした、季節はずれのリゾート地。

泣き出したくなるほど壮大な自然現象。

おびただしい数の剥製や、生々しい人体解剖が展示された博物館。

現地で仲良くなった友達に連れられて遊び回ること。

すさまじいほど「なんにもない」大地。

腐敗臭と物乞いで溢れた世界。

度肝を抜かれるほどおいしいごはん。


どれも、知らない。

見たことがない。感じたことも、出逢ったことも、味わったこともない。

そんなことばかり、次々と溢れ出す。衝撃の連続にちょっと怖気づきながら、それでも憑かれたように読みすすめていった。

 

マレーシアの話。
釣りに誘われ、現地でできた友達にくっついて出かけたはいいものの、朝から晩までその友達の友達と会い続け、ごはんを食べては喋ることの繰り返し。

今日は中止か、と落ち込んでいた深夜一時、「さあ釣りに行こう!」と、満面の笑みで友達は言うのである。

そうして約束どおり、舟を出して釣りに行き、海辺でバーベキューをし、そのまま砂浜に並んで眠ったという。


" 自分がいかに狭い世界で、狭い視野で、狭い部分でものを考えていたか、目から鱗が落ちる思いであった。ひとつのことをするのに十二時間以上待ったっていいじゃないか。食って飲んで友達と話して、それだけで一日を終えたっていいじゃないか。深夜二時過ぎにバーベキューしたっていいじゃないか。"

/『かくも長き一日』より

 


また、1991年に作者が初めてタイを旅した回想の描写も印象的だった。


" 道に放置された動物の死骸を見たことはなく、口にする豚肉が血を流すことも知らず、陽射しの強さも物乞いをする足のない人も知らず、真綿でくるまれたような世界しか見てこなかったと、二十三歳の私は強く思ったのだった。"

/『はつ恋』より

 

こんなことってあまりないのだけれど、この本の最後、キューバの章に載っていた写真から目が離せなくなった。

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なんて、素敵な笑顔なんだろう。この人たちの人柄が透けて見えるような表情に、自分がこの場にいたかのような錯覚すら抱いた。

それまでひっきりなしに文字を目で追い、その遅さにもどかしさすら感じながらページをめくっていたことも忘れ、ひたすら食い入るように眺め続ける。

いいな、なんかいいな、というただそれだけの思いがひたひたと押し寄せてきた、一枚の写真。

 

" 旅することは、数少ない私の純粋趣味である。純粋、というのはつまり、なんの役にもたたなくとも、あるいは損をしたって、好きでいることをどうにもやめられない、というような意味だ。"

/ 『あとがき』より


「よーし、感動させてやろう」なんて、わざとらしい魂胆はちっとも感じられない文章である。
なのに、なんの前触れもなく涙がぽろっと出て、自分でもなんだかわからなくて焦った。
この気持ちは、一体なんだろう。

 


ぜんぜん違う話をします。


わたしからしてみると、こうやってエッセイをまとめて本を出版している人たちは、ものすごく非凡で、特別である。

でもその人たちにとってみれば、それはきっと平凡なことなのだろう。
その人たちの思う非凡は、多分もっと別なところにある、もっと違うことや違う人であって。なんだかうまく言えないけれど。

だから、自分が平凡か非凡かなんて、ふつうか特別かなんて、いくら考えたって仕方がないのだと。決まりきった尺度があるわけじゃない、それは自分じゃ到底計り知れないことなのだ。

少し前までちっぽけなことで悶々としていたわたしに、この本はそう気付かせてくれた気がしている。

 


人生のすべてじゃない。日常生活の中、あるいは非日常の中の、ごくわずかな一片を切り取ったもの。

その刹那に、魅せられずにはいられない。

決してきらきらしたエピソードではなくても、嫌いな自分を露呈するような話でも、なんらかの彩りを加え、一つひとつに意味を見つける。


その上こうやって誰かに影響を与えられるなんて、とてつもなくすごいことだと思うのだ。

 

愛なんて知らない

 

言葉ってやっぱりいいな〜! と、
心が打ち震えるほどに噛みしめながら、
最近まいにち生きている。


歌詞とか小説とかコピーとか短歌とか、その形態はさまざまで。
そこらじゅうにあふれてる。拾いあつめるのに追いつかなくって、もうもどかしいくらい。笑

 

穂村弘「ぼくの短歌ノート」より。


一度にわれを咲かせるようにくちづける
ベンチに厚き本を落として / 梅内美華子

まるで映画のワンシーン。
「咲かせるように」っていうのがすき。解説にも書かれてたんやけど、自分を花にたとえてさらにそれを恋と結びつけるのが、なんとも素敵じゃないですか。


体などくれてやるから君の持つ
愛と名の付く全てをよこせ / 岡崎裕美子

暴力的なほどまっすぐ訴えかけてくる。
荒々しいくらいの切実さ。
最近出逢った中でいちばん好きです。

 

グリコのコピー。


数年前にはいなかったのに、
今ではなくてはならないキミです。 / 石田文子

ずっと一緒にはいられないから、
今はずっと一緒にいよう。 / 同


好きや、と思ったのが偶然同じ作者でした。
両方とも、いろんな近しい人に重ねられるコピーやと思う。家族とか恋人とか、友達とか。
ことば、なのに、体温を感じる気がする。ほんのりあたたかいような、優しくてやわらかなぬくもりを。

特に二つ目がすごく好きで、いつも胸の中に大事にしまってる言葉のひとつです。
「今」しかない今を、いつも丁寧に生きていたい。

 

LUMINEのコピー。
すべて尾形真理子さん。


恋が実るたび もう何も欲しくないと思うけど。

可愛くならなきゃって思うのは、ひとりぼっちじゃないってこと。

別人にはなれないから、自分をかわいくすればいい。

恋の終わりと恋のはじめで女の子はキレイになれる。

今日は別人みたいなんて 失礼しちゃうわ 嬉しいわ


広告の圧巻さもさることながら、コピーがどれも素敵すぎて。
女の子なら、共感せずにはいられないのでは。


恋は奇跡。愛は意思。

ルミネのターゲット層を動かすため、「刺激」と「励まし」の両方を込めたコピーだそう。

恋は奇跡。ほんとうに。
両想いって、自分の身に起こり得る最大の奇跡だと思ってる。
でも続けるには強い意思が必要で。それが愛になっていくんですね。愛だけは。aikoの愛。


余談になりますが、

「愛」関連で、ぱっと思いつくすごくすきな歌詞が (じっくり考えると多分ものすごい量になる)、
aiko「信号」の中の
「愛なんて知らない 君の本当もわからない」。

" 愛なんて知らない " なんて、えっ、aikoがそれ言う!? って感じじゃないですか。きっと沢山の恋を重ねていろんな愛の形を見てきたはずやのに、aikoですらそこにたどり着くのか…っていう。
いくつになっても新しい自分に出逢い続けてるんやなあ、と。すごく好き。

 

はい、戻ります。


恋が実るたび もう何も欲しくないと思うけど。

の、「けど。」で一気に引き込まれる。

「不思議なものですね あたしは欲が出てきたみたい」
(「どろぼう」/ aiko )

そういうものですね。

 


乱文失礼しました(ここで終わるんかい)。

もはや覚書。コピーへの愛が溢れて、書かずにはいられなかった!


わたしはことばが心底すきだと、改めて実感した一日でした。おしまい。

まんぷくの至福

 

新年あけましておめでとうございます。

年末からこっちというもの、空腹になるひまもないほどずーっとずうっと、絶え間なく何かを食べ続けていた。

というだけのお話です。

 

はじまりは12月29日。
慌ただしい年の瀬、やっと始まった冬休みを祝福するかのような食べはじめであった。

まず、おいしくいっぱい食べることにかけては天下一品の友人たちとランチバイキング。
そして空腹を待たず、夜は高校時代の友人たちと焼肉バイキングへ。
食べ放題、というのはなんと魅惑的な響きだろう。あれもこれも、食べたいが止まらない。


翌日夜、実家での夕食もまさかの焼肉。
それも、普段めったにお目にかかれないようないいお肉である。いちばんに焼き、岩塩を振りかけて口に運んだ。
肉の繊維が、ほどけるようにやわらかい。
思わず言葉を失い、悶絶。舌の上でとろける脂がほんのりと甘く、信じられないほどおいしかった。


そして迎えた大晦日。夜ごはんは、まぐろといくらの丼と、ぶあつい豚バラを焼いたもの。
この豚肉が、またたまらない。父の田舎である鹿児島県産のものらしく、今まで食べてきた豚肉はいったいなんだったのかと言いたくなるほど、美味い。
たっぷりした脂身のわりに、全くと言っていいほどくどくない。適度な歯ごたえ、まったりとした口当たり。
シンプルなのに、奥ゆかしい。豚肉の底力を目の当たりにした気がした。

食後も「大晦日やし」を言い訳に、絶え間なく何かしらを口に運ぶ (チョコとかポテチとか、文字にするのも恐ろしいものたち)。
そして当たり前のように、10時半ごろには年越しそば(海老天付き)をおいしく食しました。

 

新年明けまして、お正月。

朝、母方のおばあちゃん家でおいしいごはんをお腹いっぱい食べる。

昼(わずか1時間後)、実家で母のお雑煮とおせち料理ミスドのドーナツを堪能する。

そして夜、父方のおばあちゃん家で(おじいちゃん家、とは言わないのはなんでだろう)お雑煮をいただいたあと、お腹がはちきれそうになるほどお寿司をたらふく食べた。
食後には、何種類ものチョコレートがずらりと並びました。まんべんなく食べました。


まだ終わりません、1月2日。
この日の夜は、父が大量に買ってきてくれた鰤でしゃぶしゃぶ。まったく贅沢な食生活である。

こんないいものをお腹いっぱい食べられるなんて、なんてしあわせなことだろう。


そして3日の昼、雑炊をたべた。
細切りにされた豚肉(大晦日と同じもの)が入っていて、心底美味しい。江國香織さんが自身のエッセイの中で、豚肉の脂身のことを「ぷきっとした」と書いていたが、まさにその通りだと思う。ほのかに甘く、濃厚で、でもしつこくない。まったく癖になるうまさ。

二杯目に突入したところで、年末につくった味噌だれが残っていることを思い出したので混ぜてみた。芳醇な香りが口いっぱいに広がり、これがまたたまらなくおいしい。味噌の濃厚なコク、マヨネーズのまろやかさ、ぴりりと効かせた豆板醤も絶妙にマッチ。

こんなにおいしいものを一杯でやめるのは至難の技である。すいすいと三杯たいらげ、もうこれでやめておこうと思うのに、鍋のふたが開けっ放しであることを言い訳に、気がつけばひとさじふたさじ、すくっては口に運んでいる。なんと恐ろしき雑炊トラップ。

夜は気心の知れた人とおいしいものを食べながらたのしいお酒を飲み、そのあと下宿先に戻って来ました。
改めて食べまくりやったなあ。。

 

満腹って、ほんとうにしあわせですよね。
と思っていた矢先、「まさしく!」という文章に出逢いました。


ほんとうの満腹は食べた物量の多寡ではない。腹におさめた食べものの量ではなく、胸に溜めた幸福の量なのだ。ああおいしかったと満腹感に浸るひととき、生きててよかったとほころび、やわらかな気持ちになる。

(「今日はぶどうパン」 平松洋子)

 

 

しかし、鏡を見るのがこわい。
心なしか、顔が丸くなっている。そりゃなるわ。

 

来週は成人式です。

 

瀬をはやみ。


気がつけば「年の瀬」という言葉がひっきりなしに飛び交う季節になっていた。

なんと信じがたいことに、それすらも慌ただしく過ぎ去ろうとしている。
今日は大晦日ですね。


「瀬」とは流れの速い浅瀬の意味であり、年末はそれほど早く時間が過ぎるのだ、ということを表しているらしい。

それを知って、ふと思い出す百人一首があった。


『 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
    われても末に あはむとぞおもふ 』  ー 崇徳院


川の瀬の流れが速くて、岩にせき止められた急流がそこで二つに分かれても、いつかはまた合流するように
今は別れ別れになっていても、将来またきっとあなたに逢おうと思う、という恋の歌である。

意味もわからないまま詰めこむように覚えた百人一首だが、今となっては心に響くものもあり。
歌って、なんかいいですね。


まあブログの内容とは全く関係ないんですが。笑
完全に私事なうえかなり長いですが、良かったらお付き合いください。



年の瀬に寄せて。

ほんとうに、濃い一年だった。
いる場所はずっと変わらなかったけれどその中でいろんな経験があり、何より自分の内面の変化が目まぐるしかったように思う。


新たな出会いというよりは、既存の繋がりを深められたことの方が多かったんかな。

特に、サークルの先輩方。
夏を経てお話しする機会がぐっと増え、本当に嬉しかった。
形も色もまったく異なる考え方に触れるたび、自分自身が広がってゆくような感覚になりました。
感謝の気持ちと大好きでいっぱいです、、笑


そして、出逢いってふしぎやなあという話。
偶然と言ってしまえばそれまでなんやけど、時にそれを上回るような、大切なものに出逢う気がしてならないのです。

毎日のように会う人も、そうでない人も。
当人はそんなつもりなかったのかもしれないけど、いつも絶妙なタイミングで支えられてきたなあと、とても思う。
大切な人たちに、ありがとう。

 

 

この間もちょっと書いたんやけど、

今年、特に後半は、いままで生きてきた中でいちばん「言葉」と向き合った年だと思っています。


言葉の持つ力や美しさはもとより、

じゃあそれを使っていったい自分は何ができるのか? 何がしたいのか? とか

そもそもなんで言葉なんやろう、とか

自分の想いを形にするにはどうしたらいい、とか。


1月ごろ、カフェの感想とか食レポみたいなことを別のブログに書いてたんですが、結局長続きせず。

ずーっとずうーっと、なんかしたい書きたい、とは思ってたんやけど、
ずるずるだらだら なんもせんまま過ぎて行き、

でもそれが嫌で仕方なくて、

9月、勢いでこのブログを始めました。


始めてみたはいいものの、人に読んでもらうにはあまりにも自信がなくて、悩んでいて。
そんな時に、自分の「書きたい、伝えたい」気持ちの原点になっている人と期せずして再会し、笑
背中を押してもらいました。


拙くてもダサくても独りよがりでも、
まずはとりあえず書くこと、そして人に読んでもらうことが大事なのかな、と今は思う。
(それが正しいのかはわからないけれど)

毎回好きなことを好きなように書いているだけのこんなブログですが、
きちんと伝えたいことが届いていたり、それをまたわたしに伝えてくれる人が何人もいて、それが信じられないほど嬉しくて。
そして何より、自分自身が楽しくって仕方ない!
始めてよかったなあ、と心底思っています。


伝えることが怖くなくなった、というのは自分の中での大きな一歩かもしれないな。

 

今の文章はまだまだ不恰好なところだらけで、やっていることも自己満足に過ぎない。

でもわたしは、もっと人の心を動かせるような言葉を紡いでいきたいし、もっとたくさんの人に自分の文章を読んでもらいたい。

まだそれが何なのかは、ちゃんと解っていないけど。笑


とりあえず、本をたくさん読もうと思う。

そして日々の中で感じることを大切に。
すべての感情や経験を、無駄にしたくない。

綺麗な空とかやわらかい陽射しとか、
すきな人の隣で過ごす時間とか、
一生これを主食にしたいわってくらいおいしい食べ物とか、
二度と上がってこられないような気がする絶望とか、
引き裂かれるようなかなしみさえも。

ぜんぶ食べて受け入れて、糧にしていきたい。

 

" 一切を噛みしめて 一切に意味を見つける "

" 楽しい悲しい悔しい嬉しい寂しいをもっと感じて生きていきたい。"


いつも、すごく思っていること。

 


ちょっと重たくなりましたね。笑
読んでくださって、本当にありがとうございました。


では、皆さんよいお年を!☻︎

今日という日に、


素敵な映画をみた。

「アバウト・タイム  〜愛おしい時間について〜」


過去にタイムトラベルすることができる主人公のティムが、その能力をつかって繰り広げる、SF恋愛映画である。

と言ってしまえば途端に安っぽく聞こえるのだが、ほんとうにいい映画だった。


はじめは、ヒロインであるメアリーとの恋愛を描いた作品なのだと思っていた。

勿論ストーリーの軸はそこであるし、なんといってもメアリーの可愛さたるや。
ちょっと尋常ではないくらい素敵なのだが、それだけで終わる話ではない。


時を超え、過去を繰り返す中で、ティムは確実に変化を遂げてゆく。
時間がすべてを解決してくれるわけではないのだ、という現実。何度くり返したってダメなものはダメだし、ほんのわずかなタイミングが違えば、運命だって変わるのだ。

そして、同じくタイムトラベルの能力を持った父とのこと。
彼がおしえてくれたタイムトラベルを活用するヒントを実行していたティムだが、いつしかそれを超える大切なことに気づきはじめる。


変わりゆくものと、変わらないもの。
この二つについては普段から考えさせられることが多いのだけれど、改めてその向き合い方を見直したいと思った。


わたしは、ちょっとした不幸にぶつかるとまるでこの世の終わりみたいに絶望するくせに、目の眩むようなしあわせの中にいる時は、つい漫然と日々を消化してしまうことが多い気がする (人間みんなそうなんかな)。

過ぎ去ったあとに気づいても、同じ時はもう二度と戻ってこないのだ。
かつて痛感したその事実を、この映画はそっと優しく思い出させてくれた。


一分一秒を、惜しむように愛おしむ。

どんなに切望しても、確実に時は過ぎてゆく。
だからこそ、この上なく大切な今を慈しむように噛みしめて、自分の中に刻みつける。
もう二度と忘れることのないように。


わたしはわたしを、生きてきてよかった。
いつもそう思っていられるように、生きていたい。

なんて、ちょっと大げさだろうか。

 

『 今日を生きることが好きになる。』

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